アグノー包囲戦
アグノー包囲戦 | |
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アグノー要塞の地図、1700年作。 | |
戦争:スペイン継承戦争 | |
年月日:1705年9月27日 - 10月5日 | |
場所:フランス王国、アグノー | |
結果:神聖ローマ帝国の勝利 | |
交戦勢力 | |
神聖ローマ帝国 | フランス王国 |
指導者・指揮官 | |
ヨハン・カール・フォン・テュンゲン | ペリ(Peri) |
戦力 | |
歩兵20個大隊 | 兵士2,600 大砲26門 |
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アグノー包囲戦(アグノーほういせん、英語: Siege of Haguenau)はスペイン継承戦争中の1705年9月27日から10月5日にかけて行われた攻城戦。帝国元帥ヨハン・カール・フォン・テュンゲン率いる皇帝軍はフランス王国アルザス地方にある要塞都市アグノーを包囲、占領した[1]。
背景
[編集]マールバラ公爵率いる同盟軍の本軍がスペイン領ネーデルラントで対仏作戦を進めている最中、フランス元帥クロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールは7月初にアルザス地方のヴィサンブールを占領、帝国軍をローターブールから撃退しようとした。同盟軍では病気のバーデン=バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムに代わって帝国元帥ヨハン・カール・フォン・テュンゲンが指揮を執り、フランス軍の攻撃を撃退した[2]。
経過
[編集]7月27日にフランスの分遣隊がホンブルクを落とし、プファルツ選帝侯領の駐留軍はマンハイムへ撤退した。8月28日、復帰したバーデン=バーデン辺境伯率いる帝国軍はプロイセンとプファルツの援軍1万6千を受けて、フランスの要塞線であるアグノー線を突破、下アルザス地方に進軍した。まずドリュゼナイムを包囲した後、9月27日にアグノーを包囲、10月5日に落城させた。フランスの駐留軍は弱く抵抗した後、条件付き降伏を提案したが、テュンゲンは駐留軍を捕虜にすべしと要求、フランス側の提案をはねつけた。駐留軍の総督ペリ(Peri)は兵士400と傷病者を残して、残りの兵士約2千ともども夜に紛れて逃走、同盟軍の包囲が不完全だったためそれをくぐりぬくことができた。バーデン=バーデン辺境伯は激怒したが、同10月末には両軍とも冬営に入ってしまい、アグノー包囲戦が1705年戦役における最後の戦闘となった。包囲戦の成功により、帝国軍はライン川西岸に橋頭堡を築くことに成功した[3]。
脚注
[編集]- ^ Ostwald 2006, p. 342.
- ^ Spectator 1866, p. 285.
- ^ Spectator 1866, p. 286.
参考文献
[編集]- “Bijdrage tot de krijgskundige studie van den Spaanschen Successie-Oorlog in de Nederlanden” (オランダ語). De nieuwe Spectator: Krijgs- en geschiedkundig tijdschrift van het Nederlandsche leger ook in de Indiën 20: 253–286. (1866).
- Ostwald, Jamel (2006) (英語). Vauban Under Siege: Engineering Efficiency and Martial Vigor in the War of the Spanish Succession. Brill. ISBN 978-9004154896