カスティリオーネの戦い (1706年)

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カスティリオーネの戦い
戦争スペイン継承戦争
年月日1706年9月8日
場所イタリアカスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレ
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
Flag of Hesse.svgヘッセン=カッセル方伯領 Pavillon royal de France.svgフランス王国
指導者・指揮官
Flag of Hesse.svgヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ Pavillon royal de France.svgメダヴィー伯爵ジャック・エレノア・ルクセル・ド・グランシー
戦力
不明 23,000人
損害
両軍合わせて死者・負傷者8,000人
スペイン継承戦争

カスティリオーネの戦い(Battle of Castiglione)は、スペイン継承戦争における戦闘の1つで、1706年9月8日に現在のイタリアロンバルディア州マントヴァ県カスティリオーネ・デッレ・スティヴィエーレヘッセン軍とフランス軍が衝突した。メダヴィー伯爵率いる守備隊が勝利した。

戦闘[編集]

フランスのイタリア方面軍司令官のヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンは1706年5月以降、サヴォイア公国の首都トリノを包囲していて、さらにガルダ湖周辺にも軍を配置してオーストリア軍の進路を封じていた。しかし、フランドル方面でフランス軍がラミイの戦いで大敗、ヴァンドーム公はそちらでの戦力補強に回された。イタリア方面の指揮は経験不足なオルレアン公フィリップ2世が引き継いだ。これを知ったオーストリアの司令官プリンツ・オイゲンがトリノに駆け付けたためオルレアン公はやむなくガルダ湖のフランス軍を呼び戻し、アルプスを越えてやってくるかもしれないオーストリア側の援軍を見越して呼び戻したフランス軍の半分をアディジェ川に配置した。

オルレアン公の予想通り、ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ率いる軍勢がアルプスを越えてカスティリオーネを包囲した。メダヴィー伯爵率いる守備隊は反撃に打って出て、見事に勝利した。

影響[編集]

ヘッセン軍は前日にトリノの戦いに勝利したが、この敗北で出鼻をくじかれた形となった。トリノを占領したことでフランス軍はミラノサヴォイアから追い出されたが、メダヴィーがクレモナマントヴァを保持したため、ナポリにいる8,000人のスペイン軍とはいまだに戦えない状況にあった。

同盟軍はイタリアでの戦略をめぐって意見が分かれた。海軍はアルプスを越えて逃げるフランス軍を追うこととフランスの海軍基地であるトゥーロンの占領を主張し、これでルイ14世に講和を迫ることができるとした。一方、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世はナポリとシチリアを永久に領有したいためメダヴィーの対処を優先したかった。

この論争は最終的にはルイ14世によって解決した。フランスには動かせる陸軍が足りなかったのである。ルイ14世はやむなくイタリアの防衛を諦め、代わりにメダヴィーの軍をフランスに戻すようヨーゼフ1世と交渉をはじめた。ヨーゼフ1世はイギリスオランダの反対を押し切り、1707年3月13日にミラノでフランスとの協議が成立した。ヴィリッヒ・フォン・ダウンが率いるオーストリア軍は南イタリアを占領するが、代わりにメダヴィーのフランス軍はフランスに帰還した。ダウンは6月22日にナポリに到着、その2週間後にナポリのスペイン軍は援軍が来ないのを見て、降伏した。

海軍が主張したトゥーロン攻撃はその後、7月29日に実際になされたが、時間を与えられたフランスは防御体勢を整えてしまい、トゥーロンの包囲は失敗した。

参考文献[編集]