「カルロス・ガルシア」の版間の差分
SilverSpeech (会話 | 投稿記録) フィリピンの第8代大統領。前任者の急死により副大統領から昇格した。 |
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2017年11月22日 (水) 03:50時点における版
カルロス・ガルシア Carlos P. Garcia | |
任期 | 1957年3月18日 – 1957年12月30日 |
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任期 | 1957年12月30日 – 1961年12月30日 |
副大統領 | ディオスダド・マカパガル |
出生 | 1896年11月4日 ボホール州タリボン |
死去 | 1971年6月14日(74歳没) ケソン |
政党 | ナショナリスタ党 |
出身校 | フィリピンロースクール |
カルロス・ガルシア(Carlos P. Garcia、1896年11月4日 - 1971年6月14日)はフィリピンの第8代大統領[1]。フルネームはカルロス・ポレスティコ・ガルシア (Carlos Polestico Garcia)[2]。
経歴
1896年11月4日、カルロス・ガルシアはボホール州タリボンで生まれた[1][2]。1923年にフィリピンロースクールで法学士を取得しボホール・プロヴィンス・スクールの教師になった[1]。1925年から1931年までボホール州第3区から選出された下院議員、1933年から1941年までボホール州知事を務めた[1]。1941年には上院議員に選出された[2]が、日本のフィリピン侵攻により就任は1945年まで遅れた[1]。1953年にナショナリスタ党の公認候補として副大統領に当選し[2]、1953年から1957年までラモン・マグサイサイ大統領の下で副大統領と外務大臣を兼任した[1][2]。
1954年1月から日本とフィリピンの戦時賠償請求について大野勝己公使と本格的な予備交渉を行った[3]。4月に賠償金額4億ドル、支払期間10年、延長可能期間10年で大野・ガルシア覚書をまとめ調印を試みたものの上院の反対にあい、最終的に正式な賠償協定が調印されたのは1956年5月9日になってのことだった[4]。
第8代大統領
1957年3月17日[5]、前任の大統領ラモン・マグサイサイが死去し[2]翌日3月18日に副大統領だったガルシアが大統領に就任した[1]。同年11月12日の選挙でガルシアは得票数207万2257票、得票率41.3パーセントを獲得して大統領に当選した[1]。アメリカ合衆国との関係維持と非共産主義のアジア諸国との関係強化を外交方針としていた[2]。1961年11月、選挙で副大統領のディオスダド・マカパガルに敗北し大統領を退任した[2]。
退任後
1971年に憲法制定会議議長に就任した[1]が、同年6月14日にケソンで死去した[1][2]。遺体はタギッグにある英雄墓地に埋葬された[2]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 吉川洋子「対比賠償交渉の立役者たち」(PDF)『国際政治』第75巻、日本国際政治学会、1983年、130-149頁、doi:10.11375/kokusaiseiji1957.75_130、2017年11月22日閲覧。
外部リンク
- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、他『ガルシア』 - コトバンク
- 20世紀西洋人名事典『カルロス・ポレスティコ ガルシア』 - コトバンク