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「リチャード・P・リアリー (駆逐艦)」の版間の差分

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'''リチャード・P・リアリー'''('''USS Richard P. Leary, DD-664''')は、[[アメリカ海軍]]の[[駆逐艦]]。[[フレッチャー級駆逐艦]]の一隻。
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'''リチャード・P・リアリー'''('''USS Richard P. Leary, DD-664''')は、[[アメリカ海軍]]の[[駆逐艦]]。[[フレッチャー級駆逐艦]]の一隻。艦名は[[リチャード・P・リアリー]][[少将]]に因む


==艦歴==
==艦歴==
[[1944]][[223]]、[[マサチューセッツ州]][[ボストン海軍工廠]]で工。
リチャード・P・リアリーは194374[[マサチューセッツ州]][[ボストン]]の[[ボストン海軍工廠]]でする。1943年10月6日にジョージ・K・クロツァー3世夫人によって命名、進水し、1944年2月23日に艦長フレデリック・S・ハベッカー中佐の指揮下就役した


===第二次世界大戦===
太平洋艦隊に配属され就役する。[[1945年]][[1月6日]]にはフィリピン沖で[[特別攻撃隊|特攻機]]の突入を受けて損傷した。
バミューダでの整調後、リチャード・P・リアリーは[[パナマ運河]]経由で真珠湾へ向かった。7月に[[エニウェトク環礁]]および[[サイパン]]での護衛任務に従事した後、1944年9月15日の[[ペリリューの戦い|ペリリュー島上陸]]支援、10月20日の[[レイテ島の戦い]]に参加した。25日の[[レイテ沖海戦|スリガオ海峡海戦]]でリチャード・P・リアリーは[[戦艦]][[山城 (戦艦)|山城]]に魚雷を発射し、敵機1機を撃墜、また損傷を受けた[[アルバート・W・グラント (駆逐艦)|アルバート・W・グラント]] (''USS Albert W. Grant, DD-649'') を援護した。11月1日、[[レイテ島]]沖を偵察中に[[アブナー・リード (駆逐艦)|アブナー・リード]] (''USS Abner Read, DD-526'') の生存者70名を救助している。


[[ルソン島の戦い]]でリチャード・P・リアリーは、1945年1月6日に敵機1機を撃墜し、9日には上陸部隊への火力支援を行った。2月19日には[[硫黄島の戦い|硫黄島]]への上陸部隊に再び火力支援を行い、4月1日の[[沖縄戦|沖縄]]でも同任務に従事している。4月6日の夜から7日にかけてリチャード・P・リアリーは[[慶良間諸島]]で損傷した[[モリス (駆逐艦)|モリス]] (''USS Morris, DD-417'') の支援を行った。[[沖縄]]での任務が完了すると、リチャード・P・リアリーは8月に[[アラスカ州]][[エイダック]]への派遣が命じられた。[[アリューシャン列島]]での任務後、リチャード・P・リアリーは[[日本]]に向かい、9月8日に[[大湊 (むつ市)|大湊]]に到着する。その後9月30日に日本を出航し、[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]に向かった。
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リチャード・P・リアリーは帰国後不活性化が命じられ、1946年12月10日に退役、太平洋予備役艦隊入りした。
[[1974年]][[3月9日]]海上自衛隊を退役しアメリカ海軍に返還された。その後[[1976年]]スクラップとして売却、解体された。

===海上自衛隊で===
太平洋予備艦隊で[[モスボール]]状態のまま保管されていたリチャード・P・リアリーは、[[1954年]][[3月8日]]の[[日米艦艇貸与協定]]に基づき[[1959年]]3月10日に僚艦[[ヘイウッド・L・エドワーズ (駆逐艦)|ヘイウッド・L・エドワーズ]]とともに日本の[[海上自衛隊]]に貸与され以後[[1960年]]から15年間海上自衛隊の護衛艦[[ありあけ型護衛艦|ゆうぐれ]] (DD-184) として就役した。

[[1974年]][[3月9日]]海上自衛隊を退役しアメリカ海軍に返還された。その後[[1976年]]スクラップとして売却、解体された。

リチャード・P・リアリーは[[第二次世界大戦]]の戦功で6個の従軍星章を受章した。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]
* [[アメリカ海軍艦艇一覧]]

== 外部リンク ==
*[http://www.destroyerhistory.org/fletcherclass/ussrichardpleary/index.html USS ''Richard P. Leary'' home page] at [http://www.destroyerhistory.org/index.html Destroyer History Foundation]
*[http://history.navy.mil/danfs/r6/richard_p_leary.htm history.navy.mil: USS ''Richard P. Leary'']
*[http://www.navsource.org/archives/05/664.htm navsource.org: USS ''Richard P. Leary'']
*[http://www.hazegray.org/danfs/destroy/dd664txt.htm hazegray.org: USS ''Richard P. Leary'']



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2008年3月16日 (日) 10:45時点における版

艦歴
発注:
起工: 1943年7月4日
進水: 1943年10月6日
就役: 1944年2月23日
退役: 1946年12月10日
その後: 1959年3月10日海上自衛隊に貸与
除籍: 1974年3月18日
性能諸元
排水量: 2,050 トン
全長: 376 ft 5 in (114.7 m)
全幅: 39 ft 7 in (12.1 m)
吃水: 13 ft 9 in (4.2 m)
機関: 2軸推進、60,000 shp (45 MW)
最大速: 35ノット (65 km/h)
航続距離: 6,500海里 (12,000 km)
(15ノット時)
乗員: 329名
兵装: 38口径5インチ砲5門
40mm対空砲10門
20mm対空砲7門
21インチ魚雷発射管10門
爆雷軌条2基

リチャード・P・リアリー(USS Richard P. Leary, DD-664)は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級駆逐艦の一隻。艦名はリチャード・P・リアリー少将に因む。

艦歴

リチャード・P・リアリーは1943年7月4日にマサチューセッツ州ボストンボストン海軍工廠で起工する。1943年10月6日にジョージ・K・クロツァー3世夫人によって命名、進水し、1944年2月23日に艦長フレデリック・S・ハベッカー中佐の指揮下就役した。

第二次世界大戦

バミューダでの整調後、リチャード・P・リアリーはパナマ運河経由で真珠湾へ向かった。7月にエニウェトク環礁およびサイパンでの護衛任務に従事した後、1944年9月15日のペリリュー島上陸支援、10月20日のレイテ島の戦いに参加した。25日のスリガオ海峡海戦でリチャード・P・リアリーは戦艦山城に魚雷を発射し、敵機1機を撃墜、また損傷を受けたアルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) を援護した。11月1日、レイテ島沖を偵察中にアブナー・リード (USS Abner Read, DD-526) の生存者70名を救助している。

ルソン島の戦いでリチャード・P・リアリーは、1945年1月6日に敵機1機を撃墜し、9日には上陸部隊への火力支援を行った。2月19日には硫黄島への上陸部隊に再び火力支援を行い、4月1日の沖縄でも同任務に従事している。4月6日の夜から7日にかけてリチャード・P・リアリーは慶良間諸島で損傷したモリス (USS Morris, DD-417) の支援を行った。沖縄での任務が完了すると、リチャード・P・リアリーは8月にアラスカ州エイダックへの派遣が命じられた。アリューシャン列島での任務後、リチャード・P・リアリーは日本に向かい、9月8日に大湊に到着する。その後9月30日に日本を出航し、カリフォルニア州サンディエゴに向かった。

リチャード・P・リアリーは帰国後不活性化が命じられ、1946年12月10日に退役、太平洋予備役艦隊入りした。

海上自衛隊で

太平洋予備役艦隊でモスボール状態のまま保管されていたリチャード・P・リアリーは、1954年3月8日日米艦艇貸与協定に基づき1959年3月10日に僚艦ヘイウッド・L・エドワーズとともに日本の海上自衛隊に貸与され以後1960年から15年間海上自衛隊の護衛艦ゆうぐれ (DD-184) として就役した。

1974年3月9日海上自衛隊を退役しアメリカ海軍に返還された。その後1976年にスクラップとして売却、解体された。

リチャード・P・リアリーは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。

関連項目

外部リンク