黒川真頼
黒川 真頼(くろかわ まより、文政12年11月12日(1829年12月7日) - 明治39年(1906年)8月29日)は、江戸時代・明治時代の国学者・歌人である。旧姓は金子、幼名は嘉吉。
人物
略歴
上野国桐生新町(現在の群馬県桐生市)で、代々機業を営む金子家に生まれる。天保12年(1841年)、江戸の黒川春村に師事し、慶応2年(1867年)、春村の遺言により黒川家を継ぐ。
明治2年(1969年)に大学少助教に任じられて以降、文部省・元老院・内務省・農商務省などに籍を置き、『語彙』・『纂輯御系図』(横山由清と共編)・『大日本農史』などの編纂に参与する。
また内務省・農商務省では博物局に属し、仏国博覧会や内国勧業博覧会などの仕事に従事し、正倉院御物整理にあたったり、帝室博物館学芸員など歴任している。明治14年(1881年)、東京学士会院会員の任命された。
明治12年(1879年)、東京大学法学部文学部講師を嘱託され、明治22年(1889年)から東京美術学校、明治24年(1891年)から東京音楽学校、また明治22~3年頃より皇典講究所・國學院大學でも教鞭をとる。明治20年(1887年)『古事類苑』の編纂委員、明治21年(1888年)宮内省御歌所寄人を経て、明治26年(1893年)帝国大学文科大学教授(国語学国文学国史学第三講座担当)。明治21年には文学博士も授与された。明治32年(1899年)、中風が再発して起居の自由を失う。
黒川は、当時教授をしていた東京美術学校の開設時の制服と[1]、明治23年(1890年)に制定された裁判所で用いる法服[2][3]を考案した。これらの制服は、聖徳太子像より考証した古代官服風の冠と闕腋袍から成っており、当時としても異様なものであった[4]。そのため、黒川が裁判所に事件の証人として召喚された際には、廷丁に判事と間違えられたという逸話もある[5]。
学問
歴史、文学、美術、工芸など幅広く研究を行い、それらに関係する著書は数多い。子の真道によって『黒川真頼全集』が編纂され、『黒川真頼伝』も編まれた[6]。真頼は祝祭日唱歌「天長節」の作詞もしている(作曲は奥好義)。
なお、春村・真頼・真道三代の蔵書が、歌学書を中心に3387冊がノートルダム清心女子大学に、物語・随筆関係2286冊が実践女子大学に、神道関係704冊が國學院大學に、仏教関係500部が日本大学に、それぞれ「黒川文庫」として所蔵されており、他機関にも分散している。
栄典
著書
- 『工芸志料』
- 『考古画譜』
- 『皇国文典初学』
- 『日本古典大意』
- 『日本小文典』
- 『日本佩刀沿革』
- 『日本文学大要』
- 『日本玻璃七宝説』
- 『日本寶玉説』
- 『黒川真頼全集』
脚注
- ^ 刑部 p 205~206
- ^ 刑部 p 207~208
- ^ 穂積陳重『法窓夜話』22章「法服の制定」
- ^ 刑部 p 205, 206, 208
- ^ 「黒川判事」通俗教育研究会 p 235-237
- ^ NDLJP:957995
- ^ 『官報』第2550号、「叙任及辞令」1891年12月28。
- ^ 『官報』第6954号、「叙任及辞令」1906年09月01日。
参考資料
- 通俗教育研究会編「黒川真頼」『逸話文庫 通俗教育 [第4冊]学者の巻』大倉書店、明治44年、233-239頁。
- 刑部芳則『洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新』講談社、2010年4月。ISBN 978-4-06-258464-7。