須見新一郎

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須見 新一郎(すみ しんいちろう、1892年明治25年)3月30日 - 1977年昭和52年)4月15日[要出典])は、昭和の大日本帝国陸軍軍人1939年(昭和14年)6月以降のノモンハンの戦闘に第7師団歩兵第26連隊長として従事し、生き残ることの出来たわずか3人の連隊長の1人。最終階級は陸軍大佐

(他の2人は砲兵団野戦重砲兵第7連隊長、鷹司信熙大佐、砲兵団野戦重砲第1連隊長、三嶋義一郎[1]

経歴

東京府出身。1913年5月、陸軍士官学校(第25期)を卒業し、同年12月、陸軍歩兵少尉任官[2]1922年11月、陸軍大学校(第34期)を卒業し陸軍省軍務局歩兵課に配属[3]1935年12月、黒河省黒河特務機関長に就任。綏芬河特務機関長に転任。1937年8月、歩兵大佐に進み麻布連隊区司令官に就任。1938年7月、歩兵第26連隊長となる。ノモンハン事件後、1939年12月1日、待命、同月20日に予備役編入となる[2]

戦後長野県上山田温泉三楽荘主人

経過

第7師団歩兵第26連隊は、小松原道太郎中将率いる第23師団強化のため6月20日に配属された[4]

サイダー瓶を使った火炎瓶攻撃を組織的に実施し、83両の敵戦車(部隊記録)を破壊したことでも有名である[5]

8月23日小松原師団長が指示した、わずか400人の兵力で敵側背に迫るという無謀な作戦を拒否し、小松原師団長、辻政信参謀の無謀な作戦計画に反対するなどもあり、ノモンハン事件後予備役編入となった[6]

ノモンハン事件について、戦後このように述べている。「(小松原師団長は)あのソビエト軍をなめているなというかんじですな。あまくみているということですわ。」「でたらめな戦争をやったのみならず、臆面もなく、当時の小松原中将およびそのあとにきた荻洲立兵中将は、第一線の部隊が思わしい戦いをしないからこの戦いが不結果終わったようなことにして、各部隊長を自決させたり、処分したりしたんですね。」「責任を負って死ねと。このようなことで、非常に残念なことですが、当時の自分の直属上司はもとより、関東軍と陸軍省も参謀本部も、この戦闘についてちっとも反省しておらなかったと思います。また停戦協定後、参謀本部や陸軍省から中佐・大佐クラスの人が見えましたが、みんな枝葉末節の質問をするんで、私の希望するような、その急所を突くような質問はひとつもないんですね。」[7]

戦後長野県上山田温泉三楽荘の主人となり、司馬遼太郎の取材を受けているが、その後、司馬が参謀本部作戦課長瀬島龍三と対談したことを知ると、それまでの取材内容の使用及び今後の取材を拒否した[8]

脚注

  1. ^ 『ノモンハン事件の虚像と実像』38p
  2. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』347頁。
  3. ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、573頁。
  4. ^ 『ノモンハン事件の虚像と実像』[要ページ番号]
  5. ^ 『はじめてのノモンハン事件』[要ページ番号]
  6. ^ 『ノモンハン事件の虚像と実像』[要ページ番号]
  7. ^ 『証言私の昭和史②戦争への道』文春文庫、443、447頁。
  8. ^ 『ノモンハン事件の虚像と実像』[要ページ番号]

参考書籍

  • 岩城成幸『ノモンハン事件の虚像と実像』細流社、2013年。
  • 森山康平『はじめてのノモンハン事件』PHP研究所、2012年。
  • 三田真弘『ノモンハンの死闘 七師団戦記』北海タイムス、1965年。
  • 伊藤桂一『静かなノモンハン』講談社文芸文庫、1983年。
  • 『証言・私の昭和史②戦争への道』文春文庫、1989年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。