阿部正定
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政6年10月26日(1823年11月28日) |
死没 | 嘉永元年8月25日(1848年9月22日) |
改名 | 虎吉、杢三郎、誠一郎(幼名) |
戒名 | 紫辺院 |
墓所 | 東京都台東区蔵前の西福寺 |
藩 | 陸奥白河藩主 |
氏族 | 阿部氏 |
父母 |
父:阿部正蔵、母:南部信真の娘[1] 養父:阿部正備 |
兄弟 | 正定、須田津次郎、正外 |
妻 | 正室:花房職恕の娘 |
子 | 養子:正耆 |
阿部 正定(あべ まささだ)は、江戸時代後期の大名。陸奥国白河藩の第5代藩主。忠秋系阿部家13代。
文政6年(1823年)、白河藩阿部家分家で旗本3,000石の阿部正蔵の長男として江戸に生まれる。嘉永元年(1848年)5月10日、先代藩主の阿部正備が隠居したため、養子として跡を継いだが、わずか3ヶ月後の8月25日に病死した。享年26。跡継ぎがいなかったためその死は秘匿され、宗家に当たる備後福山藩阿部家から正耆を養子に迎えて10月15日に養子届出を幕府に提出、同日に正定の死亡届も提出、11月30日に正耆は白河藩を継いだ。その後、正耆の死後に弟の正外が白河藩を継承した[2]。