長春包囲戦

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共産軍による攻囲により陥落した長春

長春包囲戦(ちょうしゅんほういせん)とは、中国国民党軍によって守られた長春市(旧満州国首都新京)に対して中国人民解放軍によって行われた包囲作戦(兵糧攻め)のことである。1948年5月23日から10月19日までの150日間続いた。長春包囲戦は遼瀋戦役の一部であり、長春の陥落は遼瀋戦役の第一段階の終了を意味していた。

経緯

1948年5月23日、中国人民解放軍は中国国民党軍に守られた長春に対して包囲を敷き始め、空輸を停止した。包囲の間、中国人民解放軍は林彪によって指揮されていた。林ははじめ、4月に長春を攻撃するつもりであったが包囲が完成した後は彼の注意は他の都市へと移った。林は最終的に10月には長春を陥落させるつもりだった。毛沢東は林に先の都市では5カ月もかからなかったと林を嘲笑する電報を送り、林に錦州を攻めるよう命令した[1]

その後錦州陥落の情報が長春に届き、中国国民党軍の指揮官の鄭洞国将軍は大部分の幹部と共に中国人民解放軍に投降した。この中国国民党軍第60軍および新第7軍の投降によって1948年10月19日に中国人民解放軍が長春に入り、150日に及ぶ包囲戦は終了した。鄭洞国らは毛個人の命令で中国人民解放軍のポストが与えられた[2]

包囲の間、中国人民解放軍は役に立つ人以外は一切外に出さず、密輸者は即座に銃殺するほど徹底的に兵糧攻め作戦を行い、その結果市内では餓死者が続出した。最終的な餓死者は33万人に達し、国民党軍が降伏する間の5か月間に50万人だった市内の人口は17万人にまで減少した。共産党の軍隊が市内に初めて入って見た光景は餓死者の死体の山だったという。

論争

1989年8月六四天安門事件の2カ月後に張正隆中佐(zh:张正隆)が執筆した雪白血紅(zh:雪白血红)という本が中国人民解放軍出版社によって出版された。この本によると、長春包囲戦の間に150,000人の一般市民が餓死し、市から脱出しようとした一般人は国民党軍への食糧供給に圧力をかけるために追い返されたと記している。張中佐は中国革命(en:Chinese Revolution)が「コストに見合う価値がない」と考え、林彪軍の技術を毛沢東よりも優れていると称賛した。彼はまた、中国共産党幹部は国共内戦の間にアヘン取引で私腹を肥やしたと主張した[3]楊尚昆中国国家主席は雪白血紅が「共産党を侮辱している」と述べ、1990年の春に雪白血紅を発禁とした。

関連項目

参考資料

张正隆『雪白血红 中国革命斗争报告文学丛书辽沈战役卷』(解放军出版社)1989年(中国語) ISBN 9787506510486

出典

  1. ^ Westad, Odd Arne. Decisive encounters: the Chinese Civil War, 1946-1950. Stanford University Press, 2003. p. 194.
  2. ^ Westad, p. 197.
  3. ^ Pomfret, John. Red Army Starved 150,000 Chinese Civilians, Books Says. Associated Press; The Seattle Times. 2009-10-02. URL:http://community.seattletimes.nwsource.com/archive/?date=19901122&slug=1105487. 2010/11/13閲覧(Archived by WebCite at http://www.webcitation.org/5kEN5bTlE)