釜茹で

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釜茹でに処される石川五右衛門

釜茹で(かまゆで)とは、大きな釜で熱せられた湯や油を用い、罪人を茹でることで死に至らしめる死刑の方法である。

中国

古代中国では烹煮(ほうしゃ)と呼ばれる釜茹でが盛んに行われた。 三本脚の巨大な銅釜「」や、脚のない大釜「鑊」(かく)に湯をたぎらせ、罪人を放り込んで茹で殺す。そのため烹煮は、別名を「鑊烹」、「湯鑊」とも呼ばれる。帝辛(紂王)の人質・伯邑考を茹で殺し、それを煮込み汁に仕立てた上で伯邑考の父親・西伯姫昌に「もてなし」と称して食べさせたのが、記録における初見である。

春秋戦国時代には哀公が釜茹でにされるなど、覇を競う各国の王は車裂きと共にこの方法で不穏分子を処刑した。商鞅は政治改革で正式に釜茹でを死刑の一方法として定め、秦の統一後も罪人が煮殺された。

楚漢戦争の折、項羽劉邦の父・劉太公を捕らえた。そして人質とした太公を俎板に縛り付け、大釜に湯を沸かした上で、劉邦に降伏を迫った。しかし劉邦は動じることなく答える。「我々は義兄弟の契りを結んだ仲。つまりわが父は、そなたの父でもあるのだ。そなたの父を煮殺すならば、兄弟であるわしにも一杯の煮込み汁を分けてはくれまいか。」効果がないと悟った項羽は、処刑を取りやめた。楚漢戦争の中では、酈食其も釜茹でに処せられている。

前漢の時代。景帝の子孫で王族の劉去と、その妻・照信は極端に嫉妬深い性格だった。照信は劉去が寵愛していた側室・陶望卿を妬み、事あるごとに夫に「陶望卿の浮気」をでっち上げて吹き込み続けた。元々嫉妬深く、単純な性格だった劉去はその誣告を信じ込み、陶望卿を鞭打った挙句火責めにした。絶望した彼女は井戸に身を投げて自害するが、劉去と照信は引き揚げた遺体から耳と鼻をそぎ落とし、陰部に杭を打ち込んで辱めた。最後に遺体を切り刻んで大釜に放り込み、桃の木の灰と毒薬を加えた上で一昼夜煮込み、どろどろに煮溶かしたという。劉去はこれ以降も妻の讒言に惑わされ、10人以上もの側室を惨殺し続けたため、王位を取り上げられて左遷され、最終的に自害した。妻・照信は斬首の上、棄市(さらし首)に処された。

後漢も末の頃、董卓は何人もの役人を釜茹でに処した。釜の中で断末魔の叫びが上がる傍らで、董卓は平然と食事を続けたという。

以降も人を煮る処刑は続けられた。五胡十六国時代から南北朝時代にかけて、後趙石勒北斉後主など、各国の君主が釜茹でで反乱分子を処刑している。

五代十国時代後唐の将軍・姚洪(ようこう)は反乱軍の董彰に監禁されたが、降服しなかった。怒った董彰は姚洪の肉を生きながら削ぎとり、大釜でゆでながら喰らったという。つまり凌遅刑と組み合わせ、「人肉のしゃぶしゃぶ」にされたわけである。

1193年、中国北方の騎馬民族・モンゴルのテムジン(後のチンギス・ハーン)と、その盟友ジャムカとの間で、家畜の盗難を原因とした争いが発生した。十三翼の戦いと呼ばれるこの戦の勝敗は定かではないが、ジャムカは捕虜とした70名を釜茹でを用いて処刑した。この残酷さゆえにジャムカは人望を失い、結果としてテムジン側の勃興につながっていく。

南宋秦檜も、釜茹での刑を行っている。清王朝の末期まで、杭州の官舎跡には口径130センチ、深さ66センチの大釜が残されていた。秦檜が罪人を煮た釜だといわれている。


明王朝初期の靖難の役の折、南京を攻略した朱棣(後の永楽帝)は、将兵部尚書の鉄鉉を鼻そぎにして辱めた上、処刑した。そして油を満たした大釜に放り込み、揚がる遺体に釜の中から「謝罪」の体勢を取らせようとした。しかし顔が上に向くよう動かしてもすぐに裏返り、思うような形にならない。まごついているうちに遺体は黒こげとなり、爆発して飛び散ったという。

日本

日本では豊臣秀吉の暗殺を企んだ咎で1594年に京都の三条河原で執行された、石川五右衛門の釜茹で(実際には釜煎り)が有名である。この時は大釜に油を満たして熱し、その上で五右衛門を放り込んで処刑した。圧搾技術が発達しておらず、植物油が貴重品だった当時の日本においては、非常に「贅沢」な処刑方法といえ、京都の町衆は驚きあきれたという。

また、多少時代が遡るが、前田利家は北陸の一向一揆を平定した折、1000人あまりの捕虜や釜茹でを用いて処刑した。

日本においては、戦国時代から江戸時代まで、釜茹での刑が存在していた。また、五右衛門風呂の始まりともいう。

この世の刑罰として実際にあったかは別として、他界における刑罰としては、認識的にはさらに遡る。『地獄極楽図屏風』(京都金戒光明寺所蔵、鎌倉中・後期作)の仏教説話画には、釜茹でにされる人間の描写があり、13、14世紀には、地獄の刑罰器と認知されていたことがわかる。同じく京都で処刑された五右衛門の処刑方法は、地獄における刑罰の再現ともいえる。

イギリス

1531年にヘンリー8世毒殺犯に対する法定刑罰として制定した。1531年2月にロチェスター大聖堂で料理人をしていたリチャード・ルースという人物が食事に毒を盛り、数十人の司祭、教会の来賓と施しを受けていた貧民まで多数の死者を出した無差別殺人事件を起こした。イギリスにおける釜茹での刑はこの事件に対して制定されたものであった。1532年4月15日に市内中央に大釜が設置されルースは公開処刑された。

この事件では、ロチェスター大聖堂を司牧していたジョン・フィッシャー司教も料理を食べていたが、軽症にとどまった。この事件は対立していたヘンリー8世がフィッシャーを暗殺するために仕組んだとの憶測を後世に残すことになった。ヘンリー8世が特別に釜茹でを立法したのは、暗殺であることを誤魔化すためだったする説もある。

この刑罰の執行例はイギリスの歴史上わずか3件しかなく、1531年に婦人を毒殺したメイドと、1542年3月28日にロンドン北西部にあるスミスフィールド家畜市場で主人を毒殺したマーガレット・ディビーというメイドに執行されただけである。

釜茹では1547年にエドワード6世が即位すると直ちに廃止された。

外部リンク