道 (哲学)
道(どう・タオ・Tao・みち)とは、中国哲学上の用語の一つ。人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。道家や儒家によって説かれた。
解釈の諸例
老子によれば、道とは名付けることのできないものであり(仮に道と名付けているに過ぎない)、礼や義などを超越した真理とされる。天地一切を包含する宇宙自然、万物の終始に関わる道を天道(一貫道ともいう)といい、人間世界に関わる道を人道という。
孔子は天道を継承し、詩経、書経で人道についても語り、「子曰 朝聞道 夕死可矣」や「子曰 參乎 吾道一以貫之哉」(『論語』 巻第2 里仁第4)といった名句に道義的真理があり、天地人の道を追究した孔子の姿勢が伺える。
道教における「道」の概念は、神秘思想の上に取り入れられ、道家のそれとはかけはなれた概念となっているとされていたが、近年はフランス学派の学者たちを中心に道家と道教の連続性を認める傾向が多くなってきている。
『中庸』では「誠者天之道也 誠之者人之道也」と「天之道」、「人之道」が「誠」であるとし、それに基づき孟子も「是故 誠者天之道也 思誠者人之道也」(『孟子』 離婁 上)と「天之道」、「人之道」と「誠」に言及している。
『菜根譚』には、「道を守って生きれば孤立する。だがそれは一時の事だ。権力にへつらえば居心地はよかろう。だが、そののちに来るのは永遠の孤独だ。めざめた人は、現世の栄達に迷わされず、はるかな理想に生きるのだ」[1]と記し、洪自誠の主張として、一時の孤立を恐れ、永遠の孤独を招くのではなく、道を守る事が肝心と説く。
日本国学における批判
国学者の本居宣長は『古事記』を解釈する過程で儒学における「道」に対して次のような考えに至った[2]。中国には古来、一系の帝王は存在せず、彼らは互いに皆、国の奪い合いをしている。国を奪った者が帝王、奪われた者が賊である。威力があって知恵が深く、人をなつけ、人の国を奪い取ってしばらくの間、国を良く治めた人を「聖人」という。その聖人が組み立て、定めたところを「道」といっている。だから儒学で尊ぶ「道」とは、「人の国を奪う為のもの」、「人に国を奪われないようにする用意」の2つを指す。それに対し、日本の「道」は違う。それは古事記に書かれている。(中略)中国では仁義礼譲孝悌忠信などと様々に作り立てて人々に厳しく教えようとする。これも世人をなつけるための計(たばかり)である。日本にはそのような、事々しい教えは何もなかった。それにもかかわらず、日本は良く治まってきた。それこそが日本なのだ(『古事記伝』からの要約)。
中国の史実を述べた上で、「道」にそむいた事を口実に国を滅ぼし、新たに国を創り、今度はその国に忠誠を誓わせる為にまた「道」を利用し、周囲を巻き込み、多大な犠牲を生みながら、これを繰り返していると儒学批判を展開している。一方で、日本の道は万世一系に基づいているとする。
脚注
外部リンク