賀子珍

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賀子珍
賀子珍(1947年)
プロフィール
出生: 1910年9月20日
宣統2年8月17日
死去: 1984年4月19日
出身地: 江西省吉安府永新県
職業: 政治家
死没地: 中華人民共和国の旗 中華人民共和国上海市
各種表記
繁体字 賀子珍
簡体字 贺子珍
拼音 Hè Zǐzhēn
和名表記: が しちん
発音転記: ホー・ズーヂェン
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賀 子珍(が しちん、1910年9月20日 - 1984年4月19日)は、中華人民共和国政治家であり、毛沢東の3番目の妻である。

生涯

毛沢東と賀子珍(1937年、延安にて)

宣統2年8月17日1910年9月20日[1]江西省吉安府永新県で生まれた。兄の賀敏学中国語版、妹の賀怡中国共産党の革命家であり、3人合わせて「永新三和」と称された[2]

幼い頃には国際福音宣教会が運営する永新女子学校に通っていた。1927年5月に中国共産党に入党し、永新県委員会委員、女性部長、青年団委員会書記となった。「四・一二事件」(上海クーデター)の後、兄の賀敏学に同行して井崗山に向かい、袁文才中国語版や王佐が築いた塞に隠れて国民党の追捕から逃れた。毛沢東が井崗山に行った後は、袁文才の命により毛沢東の傍らで働くことになった。1928年5月に毛沢東と結婚した[注釈 1][3][4]

1931年、中華ソビエト共和国政府の機密科長に就任した。1934年に紅軍長征に参加した。その途中、宋任窮の妻を庇って頭・背中・肺に砲弾の破片を受けた。

1937年初頭、中国共産党中央委員会中央軍事委員会延安に移り、賀子珍は毛沢東と共に延安に到着した。その後、抗日軍政大学に学生として入学したが、ストレス、栄養失調、気候の不調、貧血のため、ある日学校のトイレで倒れ、すぐに休学して病気の療養に当たった[5]。賀子珍の療養中、毛沢東は延安を長期取材中のアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーが持ち込んだ社交ダンスに熱中していたことから、2人の間に誤解が生まれ、関係に亀裂が生じた。最終的に賀子珍はスメドレーの自宅に殴り込み、通訳の呉莉莉(呉光偉)と衝突した(いわゆる呉光偉事件)。その後すぐに賀子珍は妊娠したが、子供が多すぎてこれ以上産みたくなかったため、上海に行って中絶することを計画した。1937年10月、延安を離れて西安へ向かった[5]。しかし、西安に到着すると、上海は日本軍に占領されていたため、上海行きの計画は叶わなくなった。11月、王明康生陳雲モスクワから新疆蘭州・西安を経由して延安に飛んだ。賀子珍はそれに触発されて、車で西安から蘭州へ行った。中国共産党蘭州事務所の所長の謝覚哉は賀子珍に延安に戻るよう説得したが、賀子珍はモスクワへ行くと主張した[5]

1938年、賀子珍はソビエト連邦(ソ連)に渡り、東方勤労者共産大学に留学した。この間、体内に残った砲弾の破片の摘出を受けようとしたが、ソ連の医師は、破片の摘出ができないことを確認した。卒業後もソ連にとどまり、国際児童院の東洋部に勤務した。娘が重病になり、所属長と口論になったとき、当時コミンテルンの東洋部長だった王明は、賀子珍を精神病院に強制入院させるよう指示した。

1947年、王稼祥中国語版羅栄桓がコミンテルンと交渉し、賀子珍は解放されて中国に戻ったが、既に毛沢東は1939年に江青と結婚していた。賀子珍は中国東北部に滞在し、東北財務委員会党支部書記を務めた。

1950年、3級甲等障害者に認定されたが、生涯に渡り、軍の障害者年金を受け取らなかった。

中華人民共和国建国後、江青に阻まれて北京に戻ることができなくなったため、浙江省杭州市で婦人連盟の理事を務めた後、病気の療養のため上海に渡った。

1979年6月、中国人民政治協商会議第5回会議で全国政協委員に就任した。

1984年4月19日に上海で死去した。

私生活

娘・李敏と(1947年)

賀子珍の初恋の相手は共産党湖北省委員会書記の烏陽羅だったが、烏陽羅は1930年に国民党により殺害された[6]

1928年に毛沢東と恋に落ち、結婚した。毛沢東との間で10回妊娠し[7]、子供を6人生んだが、成長したのは4人だけで、そのうちの3人は転戦の間で里子に出されるなどして消息不明となり、賀子珍の手元に残ったのは李敏だけだった。その他の子供は以下の通りである(書かれている続柄は、毛沢東の全ての子供の中での出生順である)。

  • 長女 楊月花中国語版(1929年3月生) - 福建省で生まれた後、離れ離れとなった。1973年に再発見されたが、両親との再会は叶わなかった[8]
  • 四男(1930年生) - 江西省で生まれ、すぐに亡くなった。
  • 五男 毛岸紅(1932年11月生) - 幼名「毛毛」。福建省で生まれ、長征開始の当初は毛沢覃により育てられていたが、1935年の毛沢覃の死後は消息不明である。
  • 次女 熊化芝(1935年2月生) - 長征中に貴州省で生まれ、ミャオ族の家の養子となった。2003年に再発見された。
  • 三女 李敏(1936年生)
  • 六男(1938年6月生) - モスクワで生まれ、ロシア名をつけられたが、生後10か月で亡くなった。

1937年に2人の関係は悪化し、1938年に賀子珍はソ連に渡った[6]。1947年に中国に戻ったが、毛沢東は既に江青と結婚しており、賀子珍はハルビン・杭州・上海に住んだ。娘の李敏が2人の間を取り持った[6]1959年廬山会議に出席していた毛沢東と22年ぶりに再会するが[注釈 2]、江青が廬山にやってきたために途中で帰され、毛沢東の生前に2人が会ったのはこれが最後となった[6]。次に再会したのは、1976年に毛沢東が死去し、北京でその遺体を見た時である[6]

脚注

注釈

  1. ^ 当時、毛沢東は2番目の妻の楊開慧とは離婚しておらず、楊開慧は1930年に国民党に捕らえられて処刑された。
  2. ^ それ以前にも、1949年に妹の賀怡(毛沢東の弟の毛沢覃の妻)を通じて再会の機会があったが、賀怡の謎の交通事故死により連絡が途絶え、会うことはできなかった。

出典

  1. ^ 孔东梅《生死两茫茫 听贺子珍讲述与毛泽东那过去的事情》:“1979年9月3日,也就是妈妈带我回京上学的第三天,中央派专机把外婆接到了北京。这个日子离9月9日外公逝世三周年纪念日还有四天,离10月7日外婆70岁生日还有一个月。 ”;“1976年是闰年,9月8日是农历八月十五,9月9日是八月十六。十五的月亮十六圆,两天都可以说是中秋节。八月中秋,正是外婆的生日。桂子飘香,花好月圆,所以得名桂圆。”。1979年10月7日是农历八月十七,八月十五、十六都是月圆之夜,两天都可以说是中秋节,八月十七也是月圆之夜中秋节期间。
  2. ^ “対毛澤東最好的女人”賀子珍的沈寂晩年” (中国語). 网易. 2009年11月10日閲覧。
  3. ^ http://v.ifeng.com/v/ykhmzd0423/#9816c9b6-e023-4c65-a7cf-cef57dae6737
  4. ^ 存档副本”. 2015年11月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年11月12日閲覧。
  5. ^ a b c 賀子珍離開毛澤東是江青“插足”造成的嗎?” (中国語). 人民网. 2011年9月22日閲覧。
  6. ^ a b c d e 賀子珍的初恋不是毛澤東” (中国語). 中国网. 2007年4月16日閲覧。
  7. ^ 情牽延安” (中国語). 新浪网文化讀書頻道 (2005年4月4日). 2010年4月22日閲覧。
  8. ^ 毛澤東尋訪長女 福建農婦是“紅色公主” Archived 2006-11-15 at the Wayback Machine.

外部リンク