議事所

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議事所
ぎじしょ
紋章もしくはロゴ
種類
種類
議院上ノ議事所上院
下ノ議事所下院
沿革
設立慶応4年2月10日
廃止慶応4年閏4月21日
1868年6月11日
後継議政官
選挙
上ノ議事所選挙制度
議定参与が兼任
下ノ議事所選挙制度
朝廷の臣下である徴士と、大藩各3名、中藩各2名、小藩各1名から選出される貢士で構成[1]
議事堂
明治政府京都府
憲法
五箇条の御誓文

議事所(ぎじしょ)は、明治時代初期に設置された日本立法府である。

概要

王政復古による新政府樹立に伴い設置。近代日本で最初の立法機関である。

議定参与からなる上ノ議事所と、朝廷の臣下である徴士と各藩から選出される貢士からなる下ノ議事所で構成される二院制と考えられるが、上ノ議事所についてはとくに規定されていなかった。

沿革

慶応3年(1867年)6月、坂本龍馬公議政体論を基にした船中八策を起草し、土佐藩後藤象二郎に伝える。「上下議政局」の設置による議会政治を提唱した。同月22日薩摩藩と公議政体論による議会政治の導入と、それに伴う大政奉還を進める内容の薩土盟約を締結する。

10月3日、後藤が藩主山内容堂を通じ、将軍徳川慶喜に「大政奉還建白書」を提出。公卿による上院、陪臣庶民による下院という二院制に基づく議会政治を求める。同月14日、慶喜は大政奉還

12月9日王政復古を宣言し、幕府の廃止と三職(総裁・議定・参与)を設置する。

翌慶応4年(明治元年1月15日1868年)、後藤象二郎、福岡孝弟が新政府に建白を行い、公卿出身の参与を「上ノ参与」として総裁・議定と「上ノ議事所(上院)」を、藩士出身の参与を「下ノ参与」として「下ノ議事所(下院)」設置を求める[2]

2月10日太政官布告で各藩から派遣される貢士を規定[3]。公議機関である「議事所」が事実上設置される[1]

閏4月21日(6月11日)、政体書の布告により議事機関として議政官を設置したことで廃止。

脚注

  1. ^ a b 『維新前後に於ける立憲思想』尾佐竹猛著、文化生活研究会、1925年大正14年)
  2. ^ 『明治初期の徴士制について』 - 馬場義弘
  3. ^ 明治元年太政官布告第88号 - 『法令全書』、国立国会図書館デジタルコレクション

参考資料

  • 藤井新一「明治初年に於ける議会政治」『法学論集』 1, 5-27, 1964年昭和39年)11月1日、駒澤大学NAID 110000213095
  • 帝国議会の貴族院 -大日本帝国憲法下の二院制の構造と機能-
  • 明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料 - 衆議院憲法調査会事務局