藤原継縄

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藤原継縄/『前賢故実』より

藤原 継縄(ふじわら の つぐただ、神亀4年(727年) - 延暦15年7月16日796年8月27日))は、奈良時代後期から平安時代初頭の公卿藤原南家の祖である左大臣藤原武智麻呂の孫。右大臣藤原豊成の次男。官位正二位右大臣従一位桃園右大臣あるいは中山を号す。

経歴

出生から藤原仲麻呂の乱まで

天平宝字7年(763年)37歳で従五位下に叙せられる[1]。翌天平宝字8年(764年)正月に信濃に任官した後、9月に藤原仲麻呂の乱が起こると、大宰員外帥に左遷されていた父・豊成が右大臣に復すると同時に、継縄は越前守に任じられた。藤原仲麻呂北陸道への逃亡を企てており、越前は軍事的に重要な場所であった点から、軍事目的の任命であったと考えられる。

道鏡政権・光仁朝

道鏡政権に入ると急速に昇進、天平神護元年(765年従四位下に昇叙、翌天平神護2年(766年)には参議として公卿に列す傍ら、右大弁外衛大将と文武の要職を歴任した。

光仁天皇即位後も順調に昇進し、宝亀2年(771年従三位に昇叙された。その後、左兵衛督兵部卿など武官を歴任する。宝亀11年(780年中納言昇進後に、陸奥国蝦夷の族長伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使紀広純を殺害すると(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく征東大使に任ぜられた。しかし継縄は準備不足などを理由にして京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。

桓武朝

桓武天皇即位後、中務卿左京大夫を歴任し、延暦2年(783年大納言に任ぜられ、従兄弟の右大臣藤原是公とともに、藤原南家の公卿で太政官の首班・次席を占めた。延暦4年(785年)の藤原種継暗殺や、桓武の皇后藤原乙牟漏夫人旅子の相次ぐ死により藤原式家の勢力が衰えたためか[2]昇進も順調で、大宰帥・皇太子傅中衛大将を経て、延暦8年(789年)藤原是公の死去により太政官の筆頭の地位に就き、延暦9年(790年右大臣に至った。

継縄が太政官筆頭の時期の重要事項として、延暦11年(792年)全国の兵士を廃止して健児を置いたことがあげられる。延暦13年(794年)の平安京遷都に深く関わったとする説もある。『続日本紀』の編纂者としても挙げられているが、彼の生前には一部分しか出来上がっておらず、実際に関与した部分は少なかったと見られている。

夫人が百済渡来氏族出身(百済王氏)であったためか、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母に持つ、桓武天皇からの個人的信頼が厚かった政治家の一人であり[3]、天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。その際に百済王氏一族を率いて百済楽を演奏させたことがある。『日本後紀』の薨伝によれば凡庸な人物であるものの人柄はよかった[4]というが、その点も桓武の信任を得た理由だという説がある[3]。没後に従一位が贈られた。

系譜

脚注

  1. ^ 継縄の弟にあたる豊成の四男・縄麻呂はすでに天平勝宝元年(749年)に20歳で従五位下に叙されているが、これは上述のように縄麻呂の母(内臣藤原房前の娘)の身分が高く、縄麻呂が嫡子として扱われた可能性があるのと、その後の藤原仲麻呂政権下で父と共に権力から排除されていたからであろう(高島正人前掲書250頁)。なお、縄麻呂は宝亀10年(779年)に中納言で死去するまで、一貫して官位では継縄より上位にあった。
  2. ^ 坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』日本の歴史第05巻、講談社2001年、pp.32-33。ISBN 4062689057
  3. ^ a b 坂本太郎『六国史』日本歴史叢書新装版、吉川弘文館、1994年(1970年初版)、pp.179-180。ISBN 978-4642066020
  4. ^ 原文(書き下し)では「才識なしと雖も謙恭自ら守り」とある

参考文献

関連項目