藤原為隆

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藤原為隆
菊池容斎画『前賢故実』
時代 平安時代末期
生誕 延久2年(1070年
死没 大治5年9月8日1130年9月26日
官位 従三位参議
主君 白河天皇堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原為房、母:源頼国の娘
藤原有佐の娘、源基綱の娘、源基俊の娘、源基清の娘
憲方光房憲隆憲光為国覚隆源顕雅室、平実親室、藤原宗能室、藤原俊経室、藤原親隆室、源俊隆
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藤原 為隆(ふじわら の ためたか)は平安時代末期の公卿参議藤原為房の長男。日記『永昌記』を記した。

経歴

応徳3年(1086年白河天皇六位蔵人となる。応徳4年(1087年従五位下越前権守に叙任され、寛治2年(1088年甲斐守に任ぜられる。

寛治6年(1092年)従五位上に昇り、中宮権大進木工頭右少弁、中宮大進、権右中弁を歴任。天仁2年(1109年従四位下・右中弁に叙任され、備中介を兼任。

天永3年12月(1113年1月)、南方より俄かに炎が高く上がった。火勢が強く、大納言藤原実季の後家の宅に加えて為隆の邸宅も焼亡した[1]。天永4年(1113年)従四位上ついで正四位下に進み、左中弁、遠江守を務める。

保安3年(1122年蔵人頭に補任され、同年中に参議、右大弁に昇り公卿に列す。保安4年(1123年勘解由長官となり、讃岐権守を兼ねる。同年、左大弁に進む。天治2年(1125年周防権守

大治3年(1128年従三位に昇るが、大治5年(1130年)9月、数日病に悩まされていた為隆はこれを治癒しようと万方を尽くしたが癒えることなく、官職を辞職。翌朝出家。同日申刻急薨。臨終は『安住正念』と評された[2]享年61。子孫は吉田家など。

後拾遺往生伝』によれば毎回朝議にあったとされる。さらに、資性倜儻(才気があり優れている)、才器軼人(才器で優れている)、職事三代、可謂独歩(職事三代独歩と謂うべし)と評されている。

官歴

※以下『公卿補任』の記載に従う。

  • 応徳3年(1086年)11月21日:蔵人
  • 応徳4年(1087年)正月5日:従五位下、3月28日:越前権守
  • 寛治2年(1088年)正月25日:甲斐守
  • 寛治6年(1092年)正月19日:従五位上(北圓堂供養行幸賞)
  • 寛治8年(1094年)6月13日:中宮権大進
  • 承徳元年12月8日(1098年1月13日):正五位下(陽明門院去嘉保元年御給)
  • 承徳3年(1099年)正月18日:蔵人
  • 康和6年(1104年)正月28日:木工頭
  • 長治2年(1105年)3月16日:右少弁(権大進如元。去木工頭)
  • 嘉承元年(1106年)6月22日:中宮大進、権右中弁、6月28日:勧学別当
  • 天仁2年(1109年)正月6日:従四位下、率分勾当、正月22日:右中弁(大進如元)
  • 天永2年(1111年)正月23日:備中介
  • 天永4年(1113年)正月5日:従四位上(弁労)、12月(1114年1月):正四位下(行幸賞)
  • 永久3年(1115年)8月13日:左中弁
  • 元永2年(1119年)正月18日:遠江守、造東寺長官
  • 保安2年12月15日(1122年1月24日):辞遠江守
  • 保安3年(1122年)正月23日:蔵人頭 9月20日:修理左宮城使、12月17日(1123年1月16日):参議(貫首(蔵人頭)一年労)、12月21日:右大弁
  • 保安4年(1123年)正月22日:勘解由長官、讃岐権守 4月:左大弁
  • 天治2年(1125年)正月19日:周防権守(明後年又見)
  • 大治3年(1128年)4月28日:従三位(行幸春日行事賞)
  • 大治5年(1130年)9月7日:辞職 9月8日:出家、薨去

系譜

脚注

  1. ^ 中右記天永3年12月14日条
  2. ^ 後拾遺往生伝
  3. ^ 以下『尊卑分脈』による。