藤原敦兼
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 承暦3年(1079年) |
死没 | 不明 |
官位 | 正四位下・刑部卿 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家道綱流(九条流) |
父母 | 父:藤原敦家、母:藤原兼子 (伊予三位) |
妻 | 藤原顕季の娘 |
子 | 実家、季兼、季行、季家、兼円、仁顕、玄操、女子(藤原成通室)、女子(藤原顕盛室) |
藤原 敦兼(ふじわら の あつかね)は平安時代後期の貴族。大納言・藤原道綱の孫で左馬頭・藤原敦家の子。官位は正四位下・刑部卿。
経歴
永長2年(1097年)正月の除目で従五位上の敦兼は若狭守に任ぜられる[1]。在任中の承徳2年(1098年)10月23日源義家とともに院昇殿を聴される[2]。康和元年(1099年)に入り越後守に転じる。康和5年(1103年)12月30日重任の宣旨が下され引き続き越後守を務めた。令子内親王家の別當を務め、同年12月や長治元年(1104年)には内親王が敦兼の第に方違を行っている。
加賀守在任中の長治2年(1105年)正月従四位上に叙される。その後、但馬守・尾張守・備中守など諸国の受領を歴任した。
天承元年(1131年)鳥羽上皇の鳥羽殿方違に武士が現れ、これに供奉していた敦兼の乗る車が射られるという事件が発生している[3]。保延4年(1138年)60歳で出家。その後の消息は不明。
人物
父・敦家に篳篥を学んだ。『古今著聞集』第八には篳篥に関しての話が収録されている。
よれば敦兼は容姿がかなり醜い人物であったが妻は美しかったという。あるとき、妻が五節の舞にて美男たちを見ると敦兼の醜さを憂い、家に帰ると敦兼に全く口を利かなくなり、嫌がらせも行った。意味も分からず妻に裏切られた敦兼は一人篳篥を奏で、妻に対する歌を繰り返し歌った。するとこれを聞いた妻は変心して再び円満な夫婦となった、という。