薄恕一

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薄 恕一(すすき じょいち、1867年1月24日慶応2年12月19日) - 1956年昭和31年)11月7日)は、日本医師力士を援助した好角家で、相撲界の後援者を指す「タニマチ」の語源になった。大阪府医師会会長や大阪府会議長も務めた。

来歴

1866年(慶応2年)筑前国糟屋郡筵内村(むしろうちむら)(現福岡県古賀市筵内)生まれ。1887年明治20年)大阪市に転居し医学を学ぶ。1889年(明治22年)、外科「薄病院」を大阪市南区(現中央区谷町6丁目27番地に開業。大相撲の愛好家として、幕下の力士を無料で治療したり、医院の中庭に土俵を作り稽古させたりするなど、物心両面で援助したため、力士から「タニマチ」と呼ばれ慕われるようになる[1]医療保険制度のない当時、力士だけでなく、患者に「貧乏人は無料、生活できる人は薬代一日四銭、金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ」という主義を貫く。深夜に起こされても往診に向かったといい、病院自体も「サンダルばきで駆け込める、庶民的で親切」だった[2]

1900年(明治33年)、近所に開設される大阪府第一高等女学校(現大阪府立清水谷高等学校)の学校医に就任。1919年大正8年)、図書館を故郷に設置し寄贈(現古賀市立図書館)。学校図書館の珍しい当時、教育へ貢献を評価され、1933年(昭和8年)、文部省から図書館表彰を受ける。1929年(昭和4年)12月、大阪府会議長に就任。第30代、31代(1931年10月)を務める。1935年(昭和10年)12月も34代として就任する[3]。1956年(昭和31年)11月7日に死去。

死後、大阪大学医学部を卒業した息子薄政太(せいた)が薄病院を継ぐ。政太は1953年(昭和28年)創設のプロアマ混成「シュピーゲル写真家協会」に参加するほどの写真好きで、谷町のカメラ仲間と交流を楽しんだという[4]

作家、直木三十五の“育ての親”

薄恕一は、親友の甥である直木三十五を幼少期から面倒みている。病弱な直木は幼稚園児のころから薄病院に通院しており、19歳のころには薄病院でアルバイトし学費も稼ぐなど、物心両面で世話になっている。 このため、直木は作家となった後も薄への感謝を忘れず、自叙伝「死までを語る」で、「薄恕一氏の紹介で、小学校の代用教員になる事になった。」「殆ほとんど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたからである。」と綴っている[5]。また、薄は、直木の弟「清二」の名づけ親にもなっている。

脚注

  1. ^ 医師 薄恕一| 古賀有名人名鑑| はじめようコガ生活| 古賀市オフィシャルページ - 古賀市役所
  2. ^ 産経新聞夕刊2005年3月11日「お相撲さんがやってきた(5)大阪・谷九 高砂部屋」
  3. ^ 大阪府議会歴代議長・副議長一覧
  4. ^ 産経新聞夕刊2009年10月27日「上町に学ぶ 古都おおさか再生」谷町 薄病院
  5. ^ 直木三十五 死までを語る - 青空文庫