菊池城
菊池城(きくちじょう)は、熊本県菊池市隈府にある中世の山城跡で、菊池氏の本拠であった。通常、菊池氏の本城(居城)を隈府城とするので、別名で隈府城とも呼ばれる[1]。
変遷
菊池十八城と呼ばれる城砦の一つで、正平年間に菊池武政により築城された[2]。菊池氏は九州における南朝方の有力者で、後に肥後守護に任じられ現菊池市は城下町として栄えた。戦国時代に入ると菊池氏は内紛を繰り返して衰退し、家督を阿蘇氏や豊後大友氏に奪われ菊池氏正統は没落した。
後、菊池氏の一族で菊池三家老の赤星親家が城主となるが、同じ菊池三家老の隈部親永に圧迫され、1578年(天正6年)親家の子赤星統家の時、龍造寺氏と結んだ親永によって赤星氏は菊池城を追われた。1580年(天正8年)親永が入城し、北上する島津氏と対峙したが、隈部氏は篭城してこれを凌いで島津氏と和睦し所領を安堵された。
1587年(天正15年)羽柴秀吉の九州平定後、親永は佐々成政の配下に組み込まれるが、同年親永が菊池城に拠って成政に反抗したため、反乱が鎮圧された後に菊池城は破却された。
現状
菊池城は菊池市の北東山麓に位置し、周囲に空堀跡や土塁跡が残る。明治維新後、勤王菊池氏を顕彰して本丸跡に菊池神社が建てられた。菊池神社の参堂脇公園に菊池武光騎馬像があり、境内には菊池武時騎馬像、第二次世界大戦で特殊潜航艇艇長としてシドニー湾に突入して戦死した松尾敬宇中佐の胸像がある。
戦前は軍神を祭る神社として名高かったが、戦後は桜やツツジの名所として市民や観光客に親しまれている。参堂脇には歴史資料館も建ち、菊池氏所縁の古文書や装束などが展示されている。
脚注
- ^ もともと鞠智城と表記されたが、平安時代に菊池城と表記されるようになった。鞠智が菊池となった理由に、公家の遊びである蹴鞠の『鞠』を憚って文字を変更したとする説がある
- ^ 寄合衆内談の事の精神により、赤星氏・甲斐氏・領民に配慮して、菊池氏は伝統的に篭城戦をとらず外に討って出ることが多かった。菊池城周辺は山や大河に囲まれているにもかかわらず平場近くに築かれた。
関連項目