羽仁未央

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。220.209.192.108 (会話) による 2015年11月19日 (木) 08:31個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

羽仁 未央(はに みお 1964年2月29日 - 2014年11月18日)は日本エッセイストメディアプロデューサー東京都出身。映画監督羽仁進女優左幸子を両親に持ち、叔母は女優の左時枝。祖父は歴史学者羽仁五郎で、祖母は婦人運動家羽仁説子。曾祖父は第四十銀行創立者の森宗作ジャーナリスト羽仁吉一で、曾祖母は自由学園創設者の羽仁もと子

来歴・人物

幼い頃から海外生活が長く、5 - 7歳をパリで、9 - 11歳をケニアで過ごす。小学校4年生の時に学校教育を否定し、話題になる。それ以後は学校に通わず、学校教育も受けず、家で教育を受ける。ホームスクーラーの先駆けとも言える存在。

10代の頃からコラムや映画の批評、短編小説、エッセイ等を執筆し1987年から香港在住。

1982年、ナンセンスSFコメディ「ヘリウッド」で映画に出演。1991年香港映画妖獣大戦」で監督と脚本を手掛けた。

1998年香港が中国返還される頃にわたり、返還期の香港についてテレビ朝日系列のニュース番組『ニュースステーション』にてシリーズでレポート。しばらく、香港、シンガポール、日本を行き来しつつ活動していた。

このほかにも、アジア中心のドキュメンタリー番組などを制作。晩年はインターネットを主軸にして活躍しており、アジアチャンネルMonjaKids.comなどのコミュニティーサイトを手掛け、香港に会社を持ち、日本と香港で主な活動を行っていた。

1999年NPOオルタナティブ大学であるシューレ大学のアドバイザーとなる。

2006年荒戸映画事務所が製作した「ゲルマニウムの夜」(原作花村萬月、監督大森立嗣)にて、スーパーバイザーを務める。

2014年11月18日肝不全のため死去[1]。50歳没。

著書

  • MIOと11ぴきのネコ / 羽仁みお 新書館 1973 (For ladies)
  • 未央のびっくり箱 文化出版局 1977.8
  • ネコの父へ人間のミオより 羽仁進共著 潮出版社 1978.2
  • 親が知らない娘の本 言いにくい話しにくいことだらけ 青春出版社 1983.6 (プレイブックス)
  • 未央と合せて八百歳 羽仁未央のおしゃべりキャッチボール 第三文明社 1985.6
  • 陽気な憂鬱症 朝日出版社 1986.2 (角本head's)
  • 香港は路の上 徳間書店 1989.3 (徳間文庫)
  • 夢見る場所は場所も夢見る フレーベル館 1992.7 (クリエイティブウーマンシリーズ)

脚注