矯公羨

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ベトナムの歴史
ベトナム語の『ベトナムの歴史』
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矯公羨(きょうこうせん、Kiều Công Tiễn、キュウ・コン・ティエン、生年不詳 - 938年)は、ベトナム矯朝の君主。中国史書では、皎公羨とも書かれる。10世紀初頭の北ベトナムで、峰州の豪族として頭角をあらわした。937年楊廷芸を殺して自立した。翌938年呉権が挙兵してそむいたため、南漢に救援を求めた。しかし南漢の援軍が到着する前に殺害された。