白暁燕

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白 暁燕(白 曉燕、パイ・シャオイェン、1980年6月23日 - 1997年4月18日/4月19日)は、台湾女優歌手白冰冰(パイ・ピンピン)の娘。

生涯

人気歌手、女優の白冰冰の一人娘として、日本漫画原作者梶原一騎との間に台湾で生まれた。冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居し、帰国したため、暁燕は冰冰の元で育てられた。

成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増えた。

1997年4月14日に誘拐され、その後、無残な虐待の末惨殺された。

誘拐殺害事件

この事件は台湾史上最大の誘拐事件とされている[1]

1997年4月14日、私立醒吾高級中学zh)2年に在学中の暁燕は、通学途中に誘拐された。犯人グループは500万ドルの身代金を要求した。冰冰はなんとか身代金全額は揃えた。しかし身代金受け渡しの失敗により、犯人グループは暁燕を殺害し遺体を遺棄した。

4月25日に警察が犯人グループのアジトをつきとめて急襲し、4人が逮捕されたが、3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がした[2]

遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載し、日本の写真週刊誌にも転載された。身代金受け渡しの際のマスコミの不手際が殺害の原因になったため、メディアへの批判が高まり、白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。時の総統李登輝は、「犯人らを発見次第問答無用で射殺せよ」との命令を発した。

8月19日、台北市内で3人の主犯格と警官800人との銃撃戦が起こり、警官2人が死傷したが、林も6か所に銃弾を受けて自殺した。[3]

10月23日、残る高と陳は台北市の整形外科病院で顔を強引に整形させた後、医師夫妻と女性看護師の3人を殺害して逃亡した[3]

11月17日、高が警官隊に包囲されると、再び銃撃戦を起こすが、逃げ切れずに拳銃で自殺した。

11月18日、最後に残る陳は、南アフリカ大使館の駐在武官官邸に人質5人を取って、立て籠もり事件を起こしたが、翌日、民進党謝長廷の弁護の約束を受けて投降し、逮捕された[3]

1998年1月22日、板橋地方裁判所は陳に対し5件の誘拐殺人強盗に対し死刑5回、別の暴行事件などで懲役刑合計59年9ヶ月を言い渡したが、張志輝(陳の義弟、林・高・陳の蔵匿容疑)は無罪判決。白冰冰はその判決に対し、正義が実証されなかったと納得しなかった[4]

日本の最高裁判所に当たる高等法院も、1999年3月16日、陳に対し白冰冰への賠償命令として1億7130万台湾元(当時のレートで約6億3000万円)という台湾史上最高額の判決を言い渡した。同年10月6日に陳の死刑が執行された。

事件の余波

事件は台湾社会に大きな衝撃を与え、台湾の治安悪化が問題となった。警政署長は責任をとって辞任。事件に対するマスコミの興味本位の報道は惨殺を引き起こした原因とも言われており大規模な抗議行動が起こった。母親の白冰冰は事件後に手記「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」(日本ではルー出版から1998年)を出版。暁燕を記念して「白暁燕文教基金会」を設立、社会安全、道徳教育、誘拐被害者の心身のケアに関する法律の制定及び死刑の存続を訴え、事件の発生した4月14日に合わせて毎年活動を行っている[1][3]

注釈

  1. ^ a b 【中国の検索ワード】台湾最大の誘拐事件から12年、悲しみ癒えず サーチナニュース 2009年4月17日
  2. ^ 8月8日にも金属会社の経営者を誘拐して、家族は警察に通報せずに身代金の支払いに応じて解放されるという事件を引き起こしている。
  3. ^ a b c d 【今日は何の日】1997:白暁燕さん殺害犯が投降 サーチナニュース 2007年11月19日
  4. ^ 張素貞(陳の妻)も後無罪確定。

参考文献

  • 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、東京法経学院出版、2002年、138頁
  • 白冰冰・著、木村光一・訳「燕よ、空へ―慟哭を乗り越えて」(ルー出版)

外部リンク