田中静壱
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田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将、従三位勲一等功三級。
経歴
田中菊太郎の次男[1]として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。実家は赤松満祐の一族を祖先とする大庄屋。龍野中学校を卒業後、陸軍士官学校に進学する。
士官学校は今村均や本間雅晴と同期の第19期。1916年(大正5年)、陸軍大学校(第28期)を優等で卒業し、英国オックスフォード大学留学の恩典を与えられた。その後はメキシコ駐在武官、参謀本部欧米課班長を経て、1932年(昭和7年)からは2年間にわたって駐米陸軍武官としてワシントンD.C.に駐在するなど、知米派軍人としての道を歩む。かの地では当時米陸軍参謀総長に就任したばかりのマッカーサーとも親交があった[2]。
指揮官としては渡米直前に水戸の歩兵第2連隊を率いて上海事変で初の戦闘に参加した。将官昇進後は満州警備の歩兵第五旅団長の後、関東憲兵隊司令官、二度にわたる憲兵司令官など、憲兵関係の職をのべ4年ほど務めている。再び戦場に出たのは日中戦争勃発後の1939年(昭和14年)8月で、第13師団長として約1年にわたって中国戦線を転戦し、特に宜昌作戦で市中一番乗りの功を立てた。そして日米開戦後の1942年(昭和17年)8月、更迭された本間雅晴の後任としてフィリピン平定中の第14軍司令官に親補された。
終戦当時は東日本の本土防衛を担う東部軍管区司令官。米軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げていたが、皮肉にも叛乱鎮圧が田中の最後の任務となった。宮城事件(玉音放送も参照のこと)が起きると自ら皇居に乗り込んで幹部将校を説得し、混乱を収束させた。昭和天皇はその働きに対して同日の8月15日夕刻拝謁を賜ったが、それから9日後の8月24日、最後の反乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室で拳銃を用いて自殺した。享年57。辞世の句は「聖恩の忝けなきに吾は行くなり」[3]。
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年譜
- 1887年(明治20年)10月1日 - 兵庫県揖保郡揖西村にて生まれる。
- 1905年(明治38年)3月28日 - 兵庫県立龍野中学校卒業
- 1907年(明治40年)5月31日 - 陸軍士官学校卒業(第19期)。
- 1910年(明治43年)11月30日 - 歩兵中尉。
- 1913年(大正2年)12月13日 - 陸軍大学校入学。
- 1916年(大正5年)11月25日 - 陸軍大学校卒業(第28期恩賜)。
- 1917年(大正6年)8月6日 - 歩兵大尉。
- 1919年(大正8年)3月8日 - イギリス駐在を命ぜられる。
- 1922年(大正11年)8月15日 - 歩兵少佐。
- 1926年(大正15年)5月1日 - メキシコ公使館附陸軍武官。
- 1927年(昭和2年)3月15日 - 歩兵中佐。
- 1928年(昭和3年)3月22日 - 参謀本部欧米課米班長。
- 1930年(昭和5年)8月1日 - 歩兵大佐。歩兵第2連隊長。
- 8月13日 - 暹羅国コンマンドール・クーロンヌ勲章[7](後のタイ国王冠第三等勲章)。
- 1932年(昭和7年)5月28日 - 米国大使館附陸軍武官。
- 1934年(昭和9年)5月7日 - 参謀本部附。
- 1935年(昭和10年)8月1日 - 陸軍少将。歩兵第5旅団長。
- 1936年(昭和11年)8月1日 - 憲兵司令部総務部長。
- 1937年(昭和12年)8月2日 - 関東憲兵隊司令官。
- 1938年(昭和13年)7月15日 - 陸軍中将。
- 8月2日 - 憲兵司令官。
- 1939年(昭和14年)8月1日 - 第13師団長。
- 1940年(昭和15年)3月13日 - 勲一等瑞宝章[8]。
- 4月29日 - 勲一等旭日大綬章[9]。
- 9月28日 - 憲兵司令官(再任)。
- 1941年(昭和16年)10月15日 - 東部軍司令官。
- 12月24日 - 参謀本部附。
- 1942年(昭和17年)8月1日 - 第14軍司令官。
- 1943年(昭和18年)3月12日 - マラリアに似た高熱を発する[10]。このとき生長の家を勧められる。
- 1944年(昭和19年)8月3日 - 軍事参議官兼陸軍大学校長。
- 1945年(昭和20年)3月9日 - 第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官。
- 8月24日 - 司令官自室にて拳銃自殺。
脚注
- ^ のちに長男が養子縁組したため家を継いだ。塚本清『あゝ皇軍最後の日 - 陸軍大将田中靜壹傳』 p.122。
- ^ 塚本、前掲書 p.142。
- ^ 塚本、前掲書 p.104。世紀の自決・田中静壱も見よ。
- ^ 年譜についてはpurunus.com 田中静壱および塚本・前掲書に依拠している。
- ^ 塚本、前掲書 p.211。
- ^ New York Times July 19, 1919 戦勝国の一つを代表して兵士50名・将校5名が行進に参加したとある。但し、この記事では田中についての言及はない。
- ^ アジア歴史資料センター 陸軍大臣宇垣一成外十二名外國勲章受領及佩用ノ件
- ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
- ^ 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧
- ^ 無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと 中嶋與一
- ^ 同上