コンテンツにスキップ

田中静壱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。218.226.43.215 (会話) による 2011年9月5日 (月) 14:30個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

陸軍中将時代の田中静壱

田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は日本の陸軍軍人。官位は陸軍大将従三位勲一等功三級

経歴

田中菊太郎の次男[1]として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。実家は赤松満祐の一族を祖先とする大庄屋。龍野中学校を卒業後、陸軍士官学校に進学する。

士官学校は今村均本間雅晴と同期の第19期。1916年(大正5年)、陸軍大学校(第28期)を優等で卒業し、英国オックスフォード大学留学の恩典を与えられた。その後はメキシコ駐在武官参謀本部欧米課班長を経て、1932年(昭和7年)からは2年間にわたって駐米陸軍武官としてワシントンD.C.に駐在するなど、知米派軍人としての道を歩む。かの地では当時米陸軍参謀総長に就任したばかりのマッカーサーとも親交があった[2]

指揮官としては渡米直前に水戸歩兵第2連隊を率いて上海事変で初の戦闘に参加した。将官昇進後は満州警備の歩兵第五旅団長の後、関東憲兵隊司令官、二度にわたる憲兵司令官など、憲兵関係の職をのべ4年ほど務めている。再び戦場に出たのは日中戦争勃発後の1939年(昭和14年)8月で、第13師団長として約1年にわたって中国戦線を転戦し、特に宜昌作戦で市中一番乗りの功を立てた。そして日米開戦後の1942年(昭和17年)8月、更迭された本間雅晴の後任としてフィリピン平定中の第14軍司令官に親補された。

終戦当時は東日本の本土防衛を担う東部軍管区司令官。米軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げていたが、皮肉にも叛乱鎮圧が田中の最後の任務となった。宮城事件玉音放送も参照のこと)が起きると自ら皇居に乗り込んで幹部将校を説得し、混乱を収束させた。昭和天皇はその働きに対して同日の8月15日夕刻拝謁を賜ったが、それから9日後の8月24日、最後の反乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧した夜、司令官自室で拳銃を用いて自殺した。享年57。辞世の句は「聖恩の忝けなきに吾は行くなり」[3]

オックスフォード大学の制服を着た田中静壱(当時大尉)。1920年
田中静壱の自筆。『行雲流水』

年譜

[4]

脚注

  1. ^ のちに長男が養子縁組したため家を継いだ。塚本清『あゝ皇軍最後の日 - 陸軍大将田中靜壹傳』 p.122。
  2. ^ 塚本、前掲書 p.142。
  3. ^ 塚本、前掲書 p.104。世紀の自決・田中静壱も見よ。
  4. ^ 年譜についてはpurunus.com 田中静壱および塚本・前掲書に依拠している。
  5. ^ 塚本、前掲書 p.211。
  6. ^ New York Times July 19, 1919 戦勝国の一つを代表して兵士50名・将校5名が行進に参加したとある。但し、この記事では田中についての言及はない。
  7. ^ アジア歴史資料センター 陸軍大臣宇垣一成外十二名外國勲章受領及佩用ノ件
  8. ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
  9. ^ 中野文庫 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧
  10. ^ 無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと 中嶋與一
  11. ^ 同上

関連項目

参考文献

  • 塚本清『あゝ皇軍最後の日 - 陸軍大将田中靜壹傳』(昭和32年・非売品)
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。