照国丸
船歴 | |
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起工 | 1929年(昭和4年)1月9日 |
進水 | 1929年(昭和4年)12月19日 |
竣工 | 1930年(昭和5年)5月31日 |
就役 | 1930年(昭和5年)6月30日 |
喪失 | 1939年(昭和14年)11月21日 |
主要目 | |
総トン数 | 11,931 トン |
載貨重量トン数 | 10,155 トン |
全長 | 160.59 m |
垂線間長 | 153.92 m |
型幅 | 19.5 m |
型深 | 11.27 m |
吃水 | 8.761 m |
機関 | ズルツァー社製ディーゼル機関2基 |
出力 | 14,368馬力(最大) 10,000馬力(計画) |
航海速力 | 15.34ノット |
最大速力 | 17.764ノット |
乗客 |
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姉妹船 | 靖国丸 |
照国丸(てるくにまる、照國丸)とは、かつて日本郵船が欧洲航路で運航していた貨客船である。
第二次世界大戦において日本が喪失した最初の商船であり、日本が参戦する前に唯一沈没した日本商船でもある。
船歴
建造の経緯
日本郵船は1921年(大正10年)までに箱根丸級の4隻を欧洲航路に就航させていたが、ヨーロッパ各国の競合他社が同航路に新型の大型客船を導入するにつれて、日本郵船の集客率に影響が出始めた。
そのため、日本郵船は欧洲航路の中でも特に旅客重視であったロンドン航路を強化すべく、1929年(昭和4年)に12,000トン級の照国丸と靖国丸の2隻を建造し、起死回生を図った。
就航後
就航後、照国丸は姉妹船靖国丸や箱根丸級の4隻とともに、横浜~ロンドン間で月に2回の航海を行なった。照国丸は横浜とロンドンを結ぶ定期航路だけでなく、「ノース・コンチネンタル・クルーズ」として、アントワープ、ロッテルダム、ハンブルクなどの北海沿岸の都市を巡ったこともある。
船内の装飾は基本的には洋風ながら、特別室のサロンには松田権六による蒔絵を取り入れるなど、日本風のインテリアも多用され、外国人の船客に特に好評であった。
航路
横浜-神戸-上海-香港-シンガポール-ペナン-コロンボ-アデン-スエズ-ポートサイド-ナポリ-マルセイユ-ジブラルタル-ロンドン
往路46日、復路41日[1]。
沈没
1939年(昭和14年)9月24日午後5時、照国丸は横浜港を出港し、25回目の航海に出た。横浜を出た照国丸は順調に航海を続け、11月上旬にマルセイユに到着した。ここで乗客のほとんどが下船し、船内に残ったのはロンドンに向かう乗客28名と乗組員176名のみとなった。
ここまでの照国丸の航海は全てスケジュール通りであったのだが、マルセイユ出港は予定より4日遅れることになってしまった。マルセイユを出港した照国丸は万が一の事態に備えて見張りを増員しただけでなく、救命艇をいつでも降下可能な状態にし、乗客に対する避難訓練も行った。そしてイギリス領であるジブラルタルを避けて、モロッコのカサブランカに寄港している。
11月15日に照国丸はカサブランカを出港。大西洋を経由し、予定より10日遅れの11月19日午前9時にイギリス本土のダウンズ沖に到着した。当初の予定ではここで仮泊し積荷検査を受けた後、水先案内人を乗船させてテムズ川沿いのロンドン港に入ることになっていた。当時のテムズ川河口にはイギリス海軍が防御のために機雷を多数設置しており、自国や中立国の船は指定された北側の航路を通っていた。しかし、この日の早朝にイギリス海軍がその北側航路上で機雷を発見したために航路が閉鎖され、照国丸も他の船とともに待機することになった。
翌11月20日にイギリス海軍による掃海作業が終了し、照国丸がテムズ川河口に向けて動き出したのは11月21日8時半のことであった。この日の天候は曇りながらも海上は穏やかで、照国丸は水先案内人による嚮導のもと15ノットで船を進ませつつも、船橋や船首にはいつもより5名多く見張員を配置させ、厳重な警戒態勢が敷かれた。
12時53分、突然船が激しい衝撃を受けた。衝撃からすぐに照国丸の船体は右舷に傾き、船首から沈み始めた。船長は一旦機関停止を命じたが、沈没を防ぐために附近の海岸に座礁させることを決意して機関再始動を命じるも、機関は最初の衝撃で再起動不能となっており、照国丸は航行不能となった。
航行不能となった後、すぐに退船命令が出された。船は激しく右に傾く中、右舷側の救命艇5隻を降下させることに成功し、乗客28名と水先案内人を含む乗組員177名全員の収容を完了した。照国丸は13時35分に右舷側に横倒しとなって沈没したものの、水深が浅く左舷の船尾部分の一部が海面上に残ったままとなった。
その後
事故後、日本政府はイギリス政府に対して損害賠償を請求したものの、照国丸を沈めた機雷を設置したのが英独[2]どちらであったのかわからず、責任の所在も定かでなかったため、イギリス政府は日本政府に対して何も協力しなかった。
なお、この後すぐに日本郵船のロンドン航路は休航となるが、乗組員は全員が翌年の1月までに同じ日本郵船の船に便乗して帰国している。
参考文献
- 大内健二『戦う民間船--知られざる勇気と忍耐の記録』 光人社、2006年、ISBN 476982498X
- 船舶技術協会『船の科学』1980年2月号 第33巻第2号
- 海人社『世界の艦船』1999年8月号 No.556
- 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年