海上挺進部隊

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海上挺身部隊(かいじょうていしんぶたい)とは太平洋戦争の末期に日本海軍において編成された部隊である。

概要

海上挺身部隊は小沢治三郎連合艦隊司令長官によって編成された、日本海軍最後の組織的行動が可能な水上艦部隊である。第三十一戦隊第十一水雷戦隊を束ねた軍隊区分である。

大型艦艇が相次いで撃沈・大破・燃料不足等で航行不能となっていた状態の中、間近に迫っていた本土決戦に向けて、本土に上陸してきたアメリカ軍を奇襲攻撃する為に編成された。

しかし、戦隊は燃料不足の為に合同で訓練を行なうこともできず、あるいは柳井付近の擬装泊地に繋留したまま、やむなく停泊訓練を行なうのみであった。

他にも駆逐艦など回天の搭載作業に難のある艦や、終戦まで搭載されなかった艦もあった。

特徴

終戦直前の大日本帝国海軍は、それまでの戦闘で多数の艦艇を損失しており、残存した艦艇も燃料不足や戦況の悪化で外洋への航行は事実上不可能になっていた。そういった状況で本土決戦が現実味を帯びて来ると、海軍の攻撃は航空機・回天震洋等の特攻作戦が主任務となり、その中で同戦隊の任務はアメリカ海軍艦船が本土に進攻してきた際に邀撃奇襲作戦をする事であった。

攻撃方法は特攻兵器回天を発射する事をメインとしていたが、回天発射後に搭載母艦自らも砲雷撃を加える事とされていた。作戦要領としては主として夜戦によるものとし、内海西部の祝島を中心とする行動半径180海里圏以内とされた。

結局本土決戦は日本の無条件降伏により実施されなかったが、もし実施されたとしても目立った被害は与えられず逆に撃沈されていた可能性が高い。

戦術

駆逐艦は回天を1〜2基、戦隊旗艦である駆逐艦花月と戦隊中最大の艦であった軽巡洋艦北上は8基を搭載し、できるだけ来攻敵部隊に近接して回天を発進させたのち、上記の通り挺進部隊は主として敵輸送船団に砲雷撃を加える事とされた。

作戦要綱をまとめると以下の通りとなる。

  1. 内海西部伊予灘北部の島嶼岬角を利用し完全遮蔽する。
  2. 主として夜間行動をもって到達し、かつ夜戦を遂行し得る限界以内の上陸点に対し、敵入泊後航空部隊の攻撃に策応して作戦するものとし、内海西部祝島を中心とする行動半径180海里以内と予定する。
  3. 各駆逐艦は回天1〜2基搭載、花月、北上は8基搭載し、交戦前に極力来航部隊に接近して回天を発射した後、挺身部隊は主として敵輸送船団を求め、夜戦によって決戦する。
  4. 使用燃料は兵力の1.5撃分として約3500tを呉方面に確保する。
  5. 駆逐艦の回天発進速力は20ノット以上とする。
  6. 搭乗員は着水後35秒にて発動する。
  7. 発動後、回天は速やかに変針し、発進した駆逐艦の針路から離れる事。

編成

松型駆逐艦の回天搭載例(下の図)。この場合の搭載数は一基だが、旗艦花月と軽巡北上は、両側にそれぞれ四基ずつ、合計八基の回天を搭載した。
1945年昭和20年)5月25日に行われた最初の編成
指揮官=第31戦隊司令官鶴岡信道少将

第11水雷戦隊

第31戦隊

昭和20年7月15日の最終的な編成
指揮官=第31戦隊司令官松本毅少将

第31戦隊