コンテンツにスキップ

泗川の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。G18672 (会話 | 投稿記録) による 2012年3月5日 (月) 09:16個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

泗川の戦い
戦争慶長の役
年月日慶長3年10月1日1598年10月30日
場所朝鮮慶尚道泗川城
結果:日本(島津軍)の圧勝
交戦勢力
日本島津軍 朝鮮連合軍
指導者・指揮官
島津義弘 董一元
戦力
7,000 数万人~37,000前後
損害
不明 36,000~36,717前後[1]
文禄・慶長の役

泗川の戦い(しせんのたたかい)とは文禄・慶長の役における合戦の1つ。

慶長3年9月(1598年10月)、朝鮮半島泗川島津義弘率いる島津軍7千がの武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦い。圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

背景

慶長3(1598)年9月末から10月初めにかけて明と朝鮮の連合軍は西から順天倭城小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城加藤軍)、に対して同時攻勢を掛けた。

このうち明将董一元率いる明・朝鮮連合軍が泗川倭城に攻め寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・南海倭城の中間に位置する為、ここを落とされると西方にいる軍との連絡が分断される可能性があった。この泗川に駐屯していたのは島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7千のみであった。

軍や立花軍が援軍を申し入れるが義弘はこの申し出を断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つこととなった。

泗川古城での前哨戦

明・朝鮮連合軍の大軍の動きを察知した島津義弘は、配下に守備させていた泗川古城永春昆陽望晋の将兵に義弘のいる泗川新城に集結するように命じた。このうち、泗川古城に配置されていた将兵は、撤収することが遅れたため明・朝鮮連合軍に包囲された。泗川古城は川上忠実を主将とし、およそ1万石の食糧を置いていたが兵力はわずか数百にすぎなかった。慶長3(1598)年9月27日、明軍は泗川古城を強襲、川上忠実は少数ながら頑強に抵抗し、城から出撃すると明将遊撃李寧・蘆得功以下数百人を討ち取った。しかし、死傷者を多く出し危機的状況に陥っていたため、数の上で圧倒的に不利な川上忠実の軍勢は明・朝鮮連合軍の囲みを突破し泗川古城を放棄し、泗川新城への撤退を目指した。包囲を突破する際、川上忠実は三十六の矢を受け重傷を負い百五十余人が戦死したが、泗川新城へ撤退することに成功した。

泗川古城の危急に対して泗川新城の島津義弘は、島津忠恒の援軍を派遣すべきだとする進言を島津軍の兵力が少数であることを理由に退け、泗川新城防備に徹した。また川上忠実は瀬戸口重治に命じて敵の食糧庫を焼き討ちさせ、これに成功した。大兵力の連合軍は食糧が不足していたが、食料庫を焼かれたことでさらに窮地に陥り、短期決戦を余儀なくされた。明軍は、接収した泗川古城において軍議を行い10月1日をもって泗川新城の総攻撃を行うことに決した。

泗川新城での戦闘

島津義弘は泗川新城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置した。連合軍の攻撃に対し、義弘は大量の鉄砲を使用したり、地雷を埋めるなどして対抗した。また、鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲も使用した。明将茅国器葉邦榮彭信古などは泗川新城の大手に、郝三聘師道立馬呈文藍芳威などが左右に備え、董一元が中軍として泗川新城に攻め寄せた。その時、白と赤の二匹の狐が城中より明・朝鮮連合軍の方へ走って行った。これを見た島津軍は、稲荷大明神の勝戦の奇瑞を示すものとして大いに士気が高まったという[2]。この時の戦闘で明・朝鮮連合軍の火薬庫に引火し爆発した。この機に乗じて、島津軍は城門を開き打って出た。島津義弘は伏兵を出動させて敵の隊列を寸断して混乱させ、義弘本隊も攻勢に転じた。島津義弘自ら4人斬り、島津忠恒も槍を受け負傷するも7人斬るなどして奮戦。混乱した連合軍は疲労していたことも手伝って、壊滅的被害を受けた。島津軍は南江の右岸まで追撃を行い、混乱し壊走する連合軍は南江において無数の溺死者を出した。10月1日夜、島津軍は泗川の平原において勝鬨式を挙行し、戦闘は幕を閉じた。

その後、集結して撤退できた連合軍の兵力は一万ほどであったという。この戦いにより島津義弘は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武名は朝鮮だけでなく、明国まで響き渡った。[要出典]

『絵本太閤記』での記述

絵本太閤記では、泗川古城を守備していたのは伊勢兵部少輔定正(貞昌)となっている。また、泗川新城は新塞城となっている。また「鬼・島津」ではなく、「怕ろし(おそろし)のしまんず」となっている。明軍の兵力は4万余り。島津軍の兵力は、義弘の5千余、忠恒の1千余、伊勢兵部少輔定正(貞昌)の3百余、併せて、6千3百余である。討ち取った明人の首は3万余とある。


勝敗の原因

篭城側の島津軍はその戦力差のため長期戦になれば不利になる恐れがあった。一方、包囲側の明軍も最低でも数万以上と推測される大軍を長期間展開するだけの食糧は無かった上に、島津軍の奇襲によって食料庫を焼失している。その結果、双方とも短期決戦を選ぶ他なかったと推測される。

心理面においては明・朝鮮軍が連合軍であるために指揮統制が難しく、一度不測の事態によって混乱すると収拾が難しかったと思われること。そして敵軍がわずか7千と圧倒的に劣勢だったため、勝利を楽観視していたのではないかと思われること。これらの要因は、連合軍の弱点となったと言える。

一方島津軍は、この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊し、多くの味方が逃げ場を失うことを強く認識していたものと思われる。また島津の伝統的な釣り野伏せの戦術で劣勢を覆した経験が幾度もあったことで、全軍の意思も統一されていたと考えられる。さらに味方の援軍を断って島津家の兵だけで戦ったことにより、少数ながらも軍としてのまとまりが非常にあったものと思われる。

上記の要因が複合し、島津軍の奇襲作戦や伏兵などが成功して連合軍が混乱し瓦解したため、寡兵の島津軍が勝利しえたと推測できる。また島津軍が大量の鉄砲を防御に使用し、効果を挙げたことも大きな要因である。

戦闘の後に

泗川の戦いに先立つ8月18日、既に豊臣秀吉は死去していたが、その死は秘匿されており、その後、10月15日付で日本軍に撤退命令が下る。 島津家がこの泗川の戦いで明軍を撃退して味方の組織的な撤退を可能にしたこと、また直後の露梁海戦で小西軍の脱出を可能にした(その際に、朝鮮水軍大将李舜臣を討取った)という功績は五大老達から高く評価されており、島津家は文禄・慶長の役に参加した諸大名で唯一の加増に預かった。

現在でも宮崎県小林市にはこの泗川での戦勝を記念して「輪太鼓踊」という舞踊が今に伝えられている。

帰国後の慶長4年6月に島津義弘忠恒親子の連名で高野山に建立した慶長の役の供養碑には南原の戦いの戦果について「慶長二年八月十五日於全羅道南原表大明國軍兵數千騎被討捕之内至當手前四百廿人伐果畢」と触れた後、泗川の戦いの戦果として「同十月朔日於慶尚道泗州表大明人八萬餘兵撃亡畢」とある。一方、味方の被害として「右於度々戰場味方士卒當弓箭刀杖被討者三千餘人海埵之閒 横死病死之輩具難記矣」とある[3]

脚注

  1. ^ 『島津家文書』には、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、計38,717の首級を上げ、打ち捨てた死体数知れずと記録されている。また後述の通り『絵本太閤記』には、討ち取った明軍の数は3万余とある。また、明の記録では「戦死者約8万人」とある。[要出典]また『宣祖実録』の十月十二日の項には、この泗川の戦い・第二次蔚山城の戦い順天城の戦いの3つを合わせて、明・朝鮮連合軍11万以上が動員されたと記されている。
  2. ^ この時の二匹の狐に纏わる踊りが『吉左右踊り』で鹿児島県無形民俗文化財に指定されている
  3. ^ 那波利貞「月峯海上録攷釈」1961年