水城
水城(みずき)は、現在の福岡県太宰府市・大野城市・春日市にあった古代日本の城。城跡は国の特別史跡に指定されている。
大宰府の防衛線として西方に築造された土塁・水濠で、長さは約1.2キロメートルにおよぶ。
歴史
『日本書紀』には次のことがらが記されているので、水城構築の背景には安全保障上の並々ならぬ懸念があったことが分かる。
- 663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。
- 当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。
- 翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
- 667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。
- その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
- 築城にあたっては、亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)、四比福夫(しひふくふ)が建設の指揮を執った。
後年、1274年の文永の役では、襲来する蒙古軍に対する防衛線として改修が施されたが、ここが実際に戦場となることはなかった。
構造と用途
水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。土塁は、高さ10メートル以上、幅80メートル、長さ1.2キロメートルあり、その博多湾側にあった堀は、幅60メートル、深さ4メートルで水を貯えていた。土塁には2箇所に開口部があり、そこに門があったことが発掘によって確認されている。土塁の内部には、御笠川から堀に水を流すための木樋が通っている。
南西の尾根を越えた場所には、現在は小水城(しょうみずき)と呼ばれる長さ80メートルの土塁がある。これは、主要部の水城と合わせて大宰府を防御するための施設だと考えられている。
大宰府政庁跡に隣接して設けてある「大宰府展示館」では、水城を俯瞰するパノラマや、構造を示すレプリカを見ることができる。
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全景(東南側より)
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側面(東側より)
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木樋(復元)
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東門跡礎石
異説
水城の用途についてはこれが単なる城壁ではなく、いざという時は御笠川をせき止め、外側の空堀に敵兵が入ってきた所へ水を一気に放流してこれを押し流すためのものだとする説がある。ただし、水をせき止めるには不都合な門と木樋の存在、そして小水城の存在意義を考えると、この説は説得力に欠けるという見方もある。
文化財
国の特別史跡
- 水城跡 - 大正10年3月3日に国の史跡に指定、昭和28年3月31日に国の特別史跡に指定変更。範囲は昭和13年12月28日から平成21年2月11日にかけて追加指定[1]。
脚注
参考文献
- 太宰府市 編、『太宰府市史』
- 筑紫豊『さいふまいり』西日本新聞社、1976年
- 森弘子『太宰府発見』海鳥社、2003年、ISBN 4-87415-422-0
- 浦辺登『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年、ISBN 978-4-86329-026-6
関連項目
外部リンク
- 水城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 史跡 > 水城跡 - 太宰府市ホームページ
- 水城跡 - 大野城市ホームページ
- 水城跡 - 春日市ホームページ
- 水城跡 - 九州国立博物館「西都 大宰府」
座標: 北緯33度31分4.97秒 東経130度29分33.56秒 / 北緯33.5180472度 東経130.4926556度