毛利吉元

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毛利 吉元
時代 江戸時代中期
生誕 延宝5年8月24日1677年9月20日
死没 享保16年9月13日1731年10月13日
改名 又四郎(幼名)→元倚(初名)→吉元
別名 通称:右京太夫
戒名 泰恒院殿仰岳浄高大居士
官位 従四位下、長門
長府藩主嗣子→長州藩
氏族 毛利氏
父母 父:毛利綱元、母:池田光政の娘・祥雲院
養父:毛利吉広
兄弟 毛利吉元本多忠次毛利匡以毛利元矩
正室:池田綱政の娘・法林院
側室:伴氏(桂月院)、森氏(永昌院)
宗元(元朝)(長男)、元陳(三男)、
宗広(維広)(五男)、
皆姫(島津継豊正室)、寧(毛利師就正室・心涼院)
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毛利 吉元(もうり よしもと)は、長州藩の第5代藩主。

長府藩主・毛利綱元の長男。母は池田光政の娘・祥雲院。養母は鷹司輔信の娘・小石姫(養心院)。正室は池田綱政の娘・法林院。

経歴

延宝5年(1677年)8月24日、江戸で生まれる。元禄4年(1691年)12月に元服して元倚(もとより、元猗とも)と名乗り、宝永3年(1706年)に叙任する。宝永4年(1707年)に本家藩主・毛利吉広が若死にすると、その養嗣子として後を継ぎ、新たに叙任する。吉広同様、将軍徳川綱吉より偏諱を賜い、吉元に改名。吉元は毛利秀元系初の長州藩主であるが、この家督相続の際に徳山藩主で、血統上は毛利輝元系の毛利元次が無視されたので、禍根を残すことになり、万役山事件を起こすこととなる。

藩財政再建のため、5ヵ年の倹約や経費節減、参勤交代での人数の減少に務めた。また、文武を奨励して藩校明倫館を創設し、さらに毛利氏の家系をまとめた閥閲録204冊の編纂も行なった。享保16年(1731年)9月13日、江戸で死去。享年55。墓所は山口県萩市椿東の東光寺大正5年(1916年)、従三位を追贈された。

初めは三男の元陳(もとのぶ)を、次に実家の長府藩主を継いでいた長男の元朝(宗元)を、次の長州藩主に定めていたが、いずれも吉元に先立って早世しており、新たに嫡男となっていた五男の維広(宗広)が跡を継いだ。

偏諱を与えた人物

吉元時代

(※「元」は毛利氏の通字として最もよく用いられている字であり、一部の分家でも代々用いられている。そちらについては特別に吉元から賜ってはいないものとみなし、明らかにこの代に賜っている人物のみを掲載する。)

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