武藤富男
武藤 富男(むとう とみお、1904年(明治37年)2月20日 - 1998年(平成10年)2月7日)は、日本の官僚、教育者、キリスト教牧師(伝道師)、恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長なども歴任した。
息子・武藤一羊はベ平連出身の社会運動家でピープルズ・プラン研究所創設後、現在は運営委員。
来歴
- 開成夜学校を経て、一高卒業。
- 東京帝国大学法学部卒業後、裁判官となり東京地方裁判所判事を務めた。
- 1934年(昭和9年) - 渡満し、満州国司法部刑事科長、国務院総務庁弘報処長を歴任。
- 1943年(昭和18年) - 帰国し、情報局第一部長に就任。終戦後、官を辞し、日米会話学院を創立。
- 1946年(昭和21年) - 賀川豊彦を呼びかけ人として、キリスト新聞を創刊し、専務兼主筆となり、後に社長に就任。
- 1947年(昭和22年) - 独学で神学を学び、日本基督教団補教師となる。
- 1962年(昭和37年) - 第7代明治学院院長就任。
- 1963年(昭和38年) - 明治学院東村山高等学校を設立、同校長に就任。
- 1977年(昭和52年) - 日本キリスト党を結成して第11回参議院議員通常選挙の全国区に立候補するも落選。
- 1988年(昭和63年) - 回想記『私と満州国』(文藝春秋)を出版。
- 1989年 (昭和64年) - 日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
人物
一高の学生時代より大森教会会員で、法務畑に入っても在京中は礼拝を欠かさず出席していた。教会の親睦会には玄人はだしの落語と漫談で周囲を笑わせていた。満州国のメディア統括のトップに立っていたとき朝日新聞が満州の市場に参入しようとすると協力する姿勢を見せた。関東軍は古野伊之助や正力松太郎との関係を重視する東条英機の意向に反する(「関東軍の司令の首が飛ぶ」)から止めた方がよいと注意したが、「帰国後に出世するためには新聞にも恩を売っておこう」とは本人の弁。国家と縁を切ってからは「全身全霊、世界の大きな流れとの関係で生き、大正時代につくられた理想主義を貫こうとした」(武藤一羊)。
関連図書
- 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手』吉川弘文館、2010