楊開慧
楊開慧 | |
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プロフィール | |
出生: | 1901年11月6日 |
死去: |
1930年(民国19年)11月14日![]() |
出身地: |
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職業: | 革命家・政治活動家 |
各種表記 | |
繁体字: | 楊開慧 |
簡体字: | 杨开慧 |
拼音: | Yáng Kāihuì |
ラテン字: | Yang K'ai-hui |
和名表記: | よう かいけい |
発音転記: | ヤン カイフイ |
楊 開慧(よう かいけい)は、中華民国の女性革命家・政治活動家。中国共産党員で、毛沢東の2番目の妻として知られる。日本留学経験を持つ学者、楊昌済(1871年 - 1920年)の娘。号は霞、字は雲錦。
事跡
楊公廟公立第四十小学、衡粋実業学校附設小学班、陰儲女子学校、稲田女子師範などで学ぶ。父の影響を受けて開明的な思想をもっていた。北京在住の17歳の時、父のもとを訪れた毛沢東と知り合う。父死後の1920年(民国9年)1月に長沙に帰り、ミッションスクールである長沙福湘女子中学選修班に入学した。直後に毛と再会・結婚し、毛岸英・毛岸青をもうける。
同年冬、楊開慧は中国社会主義青年団に加入した。1921年(民国10年)、中国共産党湘区党委員会で機密・交通に関する連絡事務を担当する。同年冬、正式に共産党に加入した。1924年(民国13年)夏、上海に赴き、女性運動に従事している。1925年(民国14年)2月に毛沢東の下に戻り、毛を補佐して農民夜学の創設に取り組んだ。10月、広州に移り、女性運動に再び参加している。1926年(民国15年)11月、長沙に戻る。まもなく毛沢東に随従して武漢に移り、中央農民講習所を開き、女性運動を展開した。1927年(民国16年)11月、長沙に引き返し、以後、共産党地下工作に従事している。
しかし1930年(民国19年)10月、国民革命軍の一系統である湘軍(湖南軍)の指導者・何鍵により、楊開慧は毛岸英らと共に長沙で逮捕されてしまった。何からは毛との離婚と非難声明を出せば釈放すると誘われたが、楊は拒絶し、ついに長沙城門外で銃殺された。享年30。一報を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ。」と嘆息したという。毛沢東にとって革命の同志であり理想の妻であった。毛沢東は晩年に女性秘書を楊開慧と同じ髪型にさせていた。
異説
ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東』には、「毛が党活動のため家庭を捨てた後、楊は毛への恋慕や彼の残虐な性向、共産主義に対する疑念を書いた書簡を書き残し自宅に隠した。それらは死後50年以上経った1982年に発見されたが、その一部は非公開となっている」との記述がある[1]。ただし実際には、上記のとおり楊自身も共産党員としての活動をその最期に至るまで積極的に展開している。
脚注
- ^ ただし、本書の内容の正確さについては批判的な見解が存在する点には留意が必要。同項目を参照。
参考文献
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。