植木枝盛
植木 枝盛 | |
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生年月日 |
1857年2月14日 (安政4年1月20日) |
出生地 | 土佐国 |
没年月日 | 1892年(明治25年)1月23日 |
死没地 | 東京市 |
出身校 |
致道館 慶應義塾 |
所属政党 |
立志社 大同倶楽部 立憲自由党 土佐派 愛国公党 |
植木枝盛(うえき えもり、安政4年1月20日(1857年2月14日) - 明治25年(1892年)1月23日)は、明治時代の思想家、政治家、自由民権運動の理論的指導者。雅号は六花。
略歴
生い立ち~青年時代
土佐藩士植木直枝(小姓組格、4人扶持24石)の嫡男として、土佐国土佐郡井口村(高知県高知市中須賀町)に生まれる。8歳から習字を学ぶ。藩校致道館、1873年(明治6年)土佐藩海南私塾の生徒として抜擢されるが、9月に退学し帰郷する。
征韓論政変に触発されて上京を決意し、傍らキリスト教関係書物『天道遡原』を読む。1875年(明治8年)19歳で上京し慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に通い[1]、明六社に参加し、福澤諭吉に師事して学ぶ。自ら修文会を組織して奥宮荘子会(奥宮慥斎)にも参加する。1875年(明治8年)から『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書を始め、1876年(明治9年)3月、『猿人君主』(郵便報知)が掲載され、讒謗律による筆禍事件で2ヶ月入獄する。キリスト教に興味を持ち始め、耶蘇教会に通う。10月『思想論』などを書く。
自由民権運動~政界へ
1877年(明治10年)板垣退助に従って帰郷し書生となる。『無天雑録』を執筆し始める。立志社に参加し、立志社建白書を起草。西南戦争による立志社の獄では逮捕されず、高陽社が創立され、機関紙『土陽新聞』『海南新誌』の編集・執筆にあたる。1878年(明治11年)愛国社再興のために四国、中国地方に遊説、8月『尊人説』を執筆。12月、頭山満に招聘され福岡に向かい、向陽義塾の開校式に出席して演説した。『愛国志林』『愛国新誌』の主筆として論陣を張り、1881年(明治14年)に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。1882年(明治15年)4月8日、板垣の岐阜遭難を受けて大阪での酒屋会議に出席。5月に上京し自由党臨時会に出席し、馬場辰猪・中江兆民・田中耕造・田口卯吉・末広重恭と共に『自由新聞』社説を担当、板垣外遊をめぐる内紛のためのちに分裂。1884年(明治17年)東海、北陸地方を遊説して帰郷。代言人試験に遅刻してあきらめる。1886年(明治19年)高知県会議員に当選。1888年(明治21年)大阪に向かい、中江兆民の『東雲新聞』を手伝い、幸徳秋水らと知り合う。京都で馬場辰猪の追悼会と同志社設立のための会合に出席する傍ら遊説。10月1日には上京し、後藤象二郎の労をねぎらい、大同団結運動では大同倶楽部に所属し、大隈重信外相の条約改正問題を攻撃するため、福澤諭吉・寺島宗則・副島種臣を訪問して反対運動の工作をし、建白書を執筆。直後に玄洋社による「大隈重信爆殺未遂事件」が起こったが、条約案は葬り去られた。愛国公党設立に尽力し、1890年(明治23年)帝国議会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1891年(明治24年)2月、板垣や栗原亮一らとの意見の違いから立憲自由党を脱党、愛国公党(土佐派)系を率いる。8月、富士山に登山。1892年(明治25年)、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。墓地は青山霊園にある。
死後の再評価
自由民権運動当時は知名度が高かったが、早世したことでその後は忘れられた存在となる。憲法学者で法制史家の鈴木安蔵が1936年に高知県立図書館に保存されていた植木の文書類を調査し、その内容を新聞に発表した[2]。これにより、植木の業績に再び光が当てられることになった。鈴木は終戦後に民間の有識者で結成された憲法研究会に参加し、研究会が1945年12月に発表した「憲法草案要綱」では植木の憲法案を参考の一つとしたと証言している[2]。
戦後は家永三郎によって研究が進められた。家永が1955年に刊行した『革命思想の先駆者 - 植木枝盛の人と思想』(岩波新書)は植木の業績や生涯を広く知らしめ、1960年に刊行した『植木枝盛研究』(岩波書店)はその後の研究の基礎文献となった。
アジア主義
植木は青年時代から独自のアジア主義(小国主義、アジア連合論)を説き、興亜会の会報をよく読み、アジア侵略をする欧米を「大野蛮」と言い、アジアの被抑圧からの独立振興を主張し、戦争にも反対であった。基本的には武力行使による国権拡張に反対して平和を志向し、日本国家の経済権益の拡張を支持した。改革アジア同士の連携を志向し、具体的には通商貿易という手段でのアジアの独立振興を志向した。被抑圧アジアの欧米からの独立志向性は、アジア主義を否定的媒介として、世界の被抑圧地域・国家の独立開放を望むインターナショナリズムに結晶し、日本青年に被抑圧アジアや世界の被抑圧王国の独立支援者(盟主ではなく「興臣」)になることを呼びかけた。
エピソード
- 『日記』にもあるように思想や著書は福澤諭吉の民権的な著書(『通俗民権論』、『通俗国権論』)の影響が強いが、『赤穂四十七士論』のように思想家として自立した著作も多く残している。
- 1879年(明治12年)2月1日、天皇と一体化する夢を見た。同月10日に「我ハ気違ナリ」の文を書く。
- 『伝習録』に影響を受けて、新聞でキリスト教を痛烈に批判した。
- 後藤象二郎を「後藤伯ハ平民ノ伯ナリ」と絶賛する一方、大隈重信を「主義なき政治家はあらず」と痛烈に批判した。
旧居
『東洋大日本国国憲按』を起草し、亡くなるまで14年間暮らした旧居が高知市桜馬場に残っていた。しかし、老朽化のため2010年に取り壊しが決まった。建物のうち書斎部分については、高知市が1600万円をかけて高知市立自由民権記念館に移設されることとなった[3]。移設工事後、2011年8月20より公開されている[4]。
著作
主な著作に『赤穂四十七士論』『報国纂録』『植木枝盛日記』『国家主権論』『勃爾咢(ボルグ)ヲ殺ス』『民権自由論』『言論自由論』などがある。
日記・書簡を含めたその多くが『植木枝盛集』(岩波書店、全10巻、1990 - 1991年)に収録されている。
参考文献
- 米原謙『植木枝盛―民権青年の自我表現』中公新書、1992年、ISBN 4121010868
脚注
- ^ 河野健二『福沢諭吉 生きつづける思想家』講談社現代新書、1967年4月。ASIN B000JA8BRK。
- ^ a b 田村貞雄「民権百年の橋渡し――鈴木安蔵氏の私擬憲法研究の意義」『日本史を見なおす』青木書店、1986年[1]
- ^ 高知新聞2010年9月3日
- ^ 枝盛の書斎を復元 高知市高知新聞2011年8月21日
外部リンク
関連項目