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松平家広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
松平家広
時代 安土桃山時代
生誕 天正5年(1577年
死没 慶長6年6月14日1601年7月13日
改名 亀千代(幼名)[1]→家広
別名 内膳正[1]
神号 稜威多加止母奴志命[注釈 1]
戒名 西照院運誉林月道曜大居士
主君 徳川家康
武蔵松山藩
氏族 桜井松平家
父母 父:松平忠正、母:多劫姫
養父:松平忠吉
兄弟 家広
異父弟妹:信吉忠頼栄姫
保科正貞清元院貞松院高運院
北条氏重
養子:忠頼
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松平 家広(まつだいら いえひろ)は、安土桃山時代武将桜井松平家6代当主。

生涯

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天正5年(1577年)、4代当主・松平忠正の子として誕生。母は徳川家康の異父妹(久松俊勝の娘)である多劫姫[1]

出生の年に父・忠正が死去した[1]。このため、叔父にあたる忠吉が家督を継ぎ[1]、多劫姫を娶った[1]。忠吉と多劫姫の間には、家広の異父弟にあたる松平信吉松平忠頼の兄弟が生まれた[1]

天正10年(1582年)6月24日、忠吉も24歳で没した[1]。家広は5歳で家督を継いだが依然として幼少であり、叔父にあたる松平忠広が後見に当たった[1]。この年の甲斐への出兵(天正壬午の乱)には忠広が従っている[1]。なお、忠広はのちに「ゆえありて遁世」したという[1]

天正11年(1583年)7月3日、家臣の堀重純(小三郎)に家康の御朱印状が出され、桜井松平家の家政を執行することとなった[1][注釈 2]。天正12年(1584年)の小牧の戦いでは酒井忠次の軍勢に加わり、家広の配下は敵兵を多く討ち取る功績を挙げた[1]

天正18年(1590年)、徳川家康の関東入封に伴って武蔵国松山城を与えられ、1万石を領した[1]武蔵松山藩[注釈 3]。天正19年(1591年)の九戸政実の乱に出陣し、中新田城(現在の宮城県加美町)の城番を務めた[1]

慶長6年(1601年)6月14日[1]、25歳で死去[1]。『寛永諸家系図伝』や『寛政重修諸家譜』編纂時の呈譜では、家広は病によって異父弟の忠頼に家督を譲ったと記されており[1]、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには忠頼が従っている[1]。『寛政譜』が記載する「或説」によれば、家広は「ゆえありて」家康の勘気を蒙ったために慶長6年(1601年)6月14日に自害し、無嗣のために家が絶えた(忠頼が絶家した家広の所領を賜った[1])という[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ いつたかともぬしのみこと。桜井神社(兵庫県尼崎市)の祭神として追贈された神号[2]
  2. ^ 堀家は多劫姫が輿入れの際に徳川家から派遣された家臣とされる[3]。桜井松平家の一時改易と再興などを越え、堀小三郎家は重臣としての格式を保った[3]。文化11年(1814年)の史料によれば、尼崎藩桜井松平家中において、堀小三郎家は460石ながらも家老たち(800石前後)よりも上席であった[3]
  3. ^ のち3万石という記述も見られる[4]。本文にある通り、家広の死と忠頼の知行をめぐる情報は錯綜しており、慶長6年に忠頼が浜松藩に5万石で加増転封されていることについて「家広の遺領を忠頼が継いだ」という説がある[5]松平忠頼参照)。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 『寛政重修諸家譜』巻第五、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.27
  2. ^ 櫻井神社”. 古社寺巡拝記. 2021年11月27日閲覧。
  3. ^ a b c 岩城卓二. “武士の家”. Web版 図説尼崎の歴史. 2021年11月25日閲覧。
  4. ^ 松山城〈埼玉県〉”. 日本の城がわかる事典. 2021年11月25日閲覧。
  5. ^ 松平忠頼”. 浜松市史 ニ(ADEAC所収). 2021年11月25日閲覧。

参考文献

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  • 寛政重修諸家譜』巻第五
    • 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) NDLJP:1082717/23
    • 『新訂寛政重修諸家譜 第一』(続群書類従刊行会、1964年)

外部リンク

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