松平吉邦
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 延宝9年1月12日(1681年3月2日) |
死没 | 享保6年12月4日(1722年1月20日) |
改名 | 勝千代(幼名)→昌尚→昌邦→吉邦 |
戒名 | 昇安院住誉知真本栄 |
墓所 |
福井県福井市足羽 運正寺 東京都品川区南品川海晏寺に改葬) |
官位 | 従四位下左近衛権少将・伊予守 |
藩 | 越前福井藩第8代藩主 |
氏族 | 越前松平氏 |
父母 |
父:松平昌勝、母:秋山氏(側室) 養父:松平吉品(昌親) |
兄弟 |
綱昌(長男)、昌平(宗昌)(三男)、昌純(四男)、昌邦(吉邦)(六男)、昌賁(七男)、娘(諏訪忠虎正室)、娘(大田原清信正室)、娘(出雲松江新田藩主のち松江藩第4代藩主松平吉透正室正室、後に従四位上左近衛中将飛鳥井雅直(公家)室) (※続柄は父・昌勝からみてのものである。) |
妻 | 正室は中納言・日野西国豊の娘。側室に辻氏。 |
子 |
勝姫(第10代松平宗矩正室、照光院) 養子(※福井藩継嗣):昌平(宗昌)(実兄) その他男子二名女子一名(全て早世) |
松平 吉邦(まつだいら よしくに)は、江戸時代の大名。越前福井藩の第8代藩主[1]。越前松岡藩主松平昌勝の六男。母は秋山氏。正室は中納言・日野西国豊(ひのにし くにとよ)の娘。側室に辻氏。子に勝姫(福井藩第10代藩主松平宗矩正室)。最高時の官位は従四位下、左近衛権少将。
生涯
延宝9年(1681年)1月12日、江戸で生まれる。幼名は勝千代。のち父より1字を取って改名し、昌尚(まさなお)と名乗る。元禄14年(1701年)3月5日、叔父で第7代藩主に就任(再任)していた松平昌明(昌親)の養嗣子となり、同年12月18日、従四位下大炊頭に叙任、昌邦(まさくに)と名を改めた。宝永元年(1704年)10月28日、養父・昌明が江戸幕府第5代将軍徳川綱吉より越前家の慣例通りに一字(偏諱)を拝領して「吉品」と改名した際に、昌邦も同じく一字を拝領して「吉邦」と改名、同年12月11日、侍従に任じられた。宝永7年(1710年)7月5日、吉品の隠居により跡を継いだ。正徳4年(1714年)12月18日、左近衛少将に任じられ、伊予守を名乗る。
享保6年(1721年)12月4日、福井にて41歳で死去し、父から越前松岡藩主を継いでいた兄の昌平改め宗昌が跡を継いだ。墓所は福井県福井市足羽の運正寺、東京都品川区南品川海晏寺。院号は昇安院。
吉邦の言動をまとめた記録「明君言動録」が残っている。
藩政
藩政においては「御国反乱程之困窮」といわれた財政の再建に力を入れた。正徳元年(1711年)11月、藩内に倹約令を出し、勘定奉行の田中条左衛門を罷免して人事を一新し、さらに経費節減や倹約を推進し、民政にも尽力した。特に民政では領民に対して善政を敷いて大いに慕われ、倹約においてもその方針が時の将軍・徳川吉宗の政策と一致し、吉宗から大いに賞賛されたと言われている。これが好評を受けてか、享保5年(1720年)から、越前国内の天領のうち10万石余が預けられること(預所)となった。預所は時折の増減を経ながら、廃藩まで預けられた。
享保年間に、藩の祐筆の松波正有の編纂による「帰鴈記」が完成した。これは越前国内の名所、城跡、社寺(跡)、山川などの地誌であり、写本の奥書によると、正徳2年(1712年)には一応の稿が完成していたが、史跡調査に関心の高かった吉邦が補訂充実を命じ、享保年間に至って藩へ提出したらしい。
これに影響を受けたのか、吉邦の上命により享保5年(1720年)「越前国城跡考」(「越前国古城跡并館屋敷蹟」「越前国古城館屋敷改帳」)が編纂された。これは越前国の(自領、天領、他藩領を問わず)全域を調査し、城跡152ヶ所、館跡64ヶ所、屋敷跡105ヶ所など合計330ヶ所の城郭遺跡を調査・レポートしたものである。 享保3年(1718年)に儒者の伊藤龍洲に命じ、第6代藩主・綱昌の代に編纂された家史を増改訂する形で、「越前世譜」(一冊本)を完成させた。一冊の内に藩主の代ごとに巻を立て、初代秀康から先代吉品までが記録されている。
また吉邦は父の昌勝に似て大の相撲好きであったと伝わり、相撲に関しての多くの逸話が残っている。
正徳4年(1714年)7月、兵法家・軍学者の大道寺友山を客分として召抱えた。
脚注