松平重昌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 松平 重昌 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代 |
| 生誕 | 寛保3年8月22日(1743年10月9日 |
| 死没 | 宝暦8年3月18日(1758年4月25日) |
| 別名 | 幼名:於義丸、小五郎 |
| 戒名 | 源隆院俊誉慈愍哲雄 |
| 墓所 | 東京都品川区南品川海晏寺 |
| 官位 | 従四位上、権少将、越前守 |
| 藩 | 越前福井藩主 |
| 氏族 | 越前松平氏 |
| 父母 | 父:徳川宗尹、母:一条兼香の娘 養父:松平宗矩 |
| 兄弟 | 松平重昌、松平重富、徳川治済、 黒田治之 |
| 妻 | なし(尾張藩徳川宗勝六女、品姫と婚約。正式婚儀前に早世。) |
| 子 | 実子なし、養嗣子:松平重富 |
松平 重昌(まつだいら しげまさ)は、越前国福井藩の第11代藩主[1] 。
略歴 [編集]
一橋徳川家の当主・徳川宗尹の長男として江戸の一橋家藩邸に生まれる。誕生日は8月23日とも22日とも。
延享4年(1747年)6月12日、江戸幕府第9代将軍徳川家重の命により、福井藩主・松平宗矩の養嗣子とされる。寛延2年(1749年)10月21日に宗矩が没したため、同年12月7日に跡を継いで福井藩主となる。宝暦5年(1755年)6月13日に元服し、将軍徳川家重から偏諱を賜り重昌と名乗り、従四位上権少将・越前守に叙任される。
宝暦8年(1758年)3月18日に16歳で夭折し、跡は養嗣子で実弟の松平重富が継いだ。
藩政 [編集]
若年で相続し、若くして死去したため、治世時の業績は直裁ではなく、おおよそ家臣らの手によるものである。相続前に幕府からの預所が全て幕府直轄となった。地域を天候不順が襲い、領民の逃散が多く、藩は困窮する領民に米を貸し出している。洪水や津波、凶作などの天候不順に見舞われている。
宝暦6年中には「他国商為替銀貸付会所」を設立している。
宝暦6年(1756年)1月22日、飛騨郡代支配下の天領の丹生郡本保村にて本保騒動が起こり、26日には鯖江藩と共同で鎮圧のために出兵している。大きな騒動は収まったが、その後も越前国内は不穏な動きが相次いだ。
脚注 [編集]
|
|||||