松平斉承
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| 松平斉承 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 文化8年2月11日(1811年3月5日) |
| 死没 | 天保6年閏7月2日(1835年7月27日) |
| 別名 | 仁之助(幼名)、斉承 |
| 戒名 | 天梁院乗誉玄通明哲 |
| 墓所 | 福井県福井市の運正寺 東京都品川区南品川の海安寺 |
| 官位 | 従四位上、左近衛権少将 |
| 藩 | 越前国福井藩主 |
| 氏族 | 越前松平家 |
| 父母 | 父:松平治好、母:寿満(千種氏) |
| 兄弟 | 斉承、善道 |
| 妻 | 正室:徳川家斉の娘・浅姫 |
| 子 | 実子:女子・義丸・邦之助(早世) 養子:松平斉善 |
松平 斉承(まつだいら なりつぐ)は、越前福井藩の第14代藩主[1]。
経歴・人物 [編集]
文化8年(1811年)2月11日、第13代藩主・松平治好の三男として福井で生まれる。文政7(1824)年3月28日に元服。従四位上侍従に叙任。第11代将軍徳川家斉より一字を拝領し、伊予守斉承と名乗る。文政8年(1825年)に父が死去したため、文政9年(1826年)1月22日に家督を継いで藩主となる。同年12月16日、左近衛権少将に任じられ、同19日には越前守と名乗りを改めた。
文政10年(1827年)から5ヵ年の倹約令を出し、文政12年(1829年)には7ヵ年の家臣の知行半減を行なって藩財政再建を目指したが、祖父や父と同じように贅沢で奢侈を好み、福井城本丸に贅沢な御殿を建設したりするなどして藩財政を悪化させた。さらに米価高騰、疫病(天然痘)の流行なども藩を苦しめる一因を成した。
天保6年(1835年)閏7月2日、江戸で死去した。享年25。死因は痢病と言われる。
実子は全て早世していたため、養子(正室浅姫の異母弟)の斉善が跡を継いだ。
近江彦根藩との領地交代転封を画策し、失敗したとも伝わる。この際の遺恨が、幕末期における藩主である松平春嶽と大老となった彦根藩主井伊直弼との対立の遠因になっているともされる。
脚注 [編集]
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