東海林稔
東海林 稔(しょうじ みのる、1903年11月7日[1] - 1967年10月1日[1][2])は、日本の地方公務員、政治家。日本社会党衆議院議員。
経歴
新潟県岩船郡瀬波町(現・村上市)出身[1][注 1]。旧制新潟県立村上中学校(現・新潟県立村上高等学校)[注 2]を経て、1927年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業[1][3]。台湾総督府技師[1][3]・陸軍ジャワ司政官となり、ジャカルタ州経済部長となる[1]。この時妻子を台湾に残した[1]。戦後の1946年に復員[1]。翌1947年に群馬県庁に入り農地部長・経済部長などを歴任した後に[1]、1956年の知事選に社会党推薦で立候補するが竹腰俊蔵に敗れる。
1958年の総選挙に群馬2区から社会党公認で立候補、当選して4期務めるが在任中に交通事故で死去[1]。この間、畜産物価審議会委員・日本社会党群馬県連合会副会長・同県本部委員長・農林水産部会長・全日農ダム特別委員長・同中央常任委員・群馬県生活協同組合連合会会長・県労働者生協理事長など[1][2]の要職を歴任した。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。