杜威
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名前 | ||||||
ラテン文字 | DU Wei | |||||
簡体字 | 杜威 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 中国 | |||||
生年月日 | 1982年2月9日(42歳) | |||||
出身地 | 鄭州 | |||||
身長 | 187cm | |||||
体重 | 80kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 杭州緑城足球倶楽部 | |||||
ポジション | DF | |||||
背番号 | 5 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
代表歴 | ||||||
2001- | 中国 | 39 (2) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
杜 威(と い、ドゥ・ウェイ, 1982年2月9日 - )は中華人民共和国出身、同国代表のプロサッカー選手。ポジションはディフェンダー。
来歴
2000年、上海申花の前身である上海有綫02のセンターバックまた守備的ミッドフィールダーとしてサッカーを始めた。すぐにチーム内でレギュラーの座を獲得し、上海申花の2シーズン目には甲級A組でリーグタイトルを獲得する。中国のユース代表ではキャプテンを務めた他、2002年のFIFAワールドカップのメンバーに20歳の若さで選出され、2試合に出場するなど、代表としても存在感を見せる。また、アテネオリンピックの予選などでも活躍した。上海申花では目覚ましい活躍を見せたため、スコットランドのセルティックが関心を寄せ、代理のRAMPマネージメント・グループを通じて、2005年8月から半年間の期限付きで移籍。ベンチ入りはしたものの、出場機会に恵まれず、初めて出場した2006年1月の対クライドFC戦ではプレーに精彩を欠き、45分間の出場でトム・ブライトンと交代する。このゲームは2-1でクライドFCが勝利した。[1] 同月、出場した試合で活躍を見せられなかったことも影響し、セルティックとの契約期間満了に伴い、上海申花に復帰した。レギュラーの座でプレーしながら、2008年には同チームのキャプテンになる。2010年、上海申花と同じ背番号5番で杭州緑城に移籍し、キャプテンに選任された。この年、チームは最後に超級4位まで上昇し、初のAFCチャンピオンズリーグ出場を果たした。2011年のシーズン終了後、杭州緑城から他のクラブへ移籍する予定であったが、2012年から指揮を執る契約を結んだ岡田武史が寸前でそれを阻止した。2010年東アジア選手権の対日本代表戦で中国代表として見せたプレーや、2011年AFCチャンピオンズリーグの対名古屋グランパス戦で杭州緑城のメンバーとして見せたプレーを、岡田が高く評価していたことがその理由であった。
エピソード
- セルティック移籍直後は移籍時期が重なっていた中村俊輔と写真などが入れ替わって掲載されることが良くあった。(なお中村はスペイン移籍時には同じセルティックの水野晃樹と2007年のアジアカップでは松井大輔と写真を間違われている。)
- ワールドカップ南アフリカ大会直前に行われた2010年東アジア選手権で、日本代表が中国代表と試合をして0-0で引き分けたが、中国側のミスに助けられた負ける一歩手前の試合をしたため、日本国内では岡田解任論が巻き起こった。杜威は当時の日本代表について、中国のマスコミの取材に対し、「ワールドカップ6カ月前のメンバー調整期間だったし、海外組の主力選手も試合に参加していなかった。ワールドカップにおける日本代表のプレーは全世界を驚かせたし、日本サッカーのレベルの高さは十分認識されるべきで、我々はそれを学んで成長していかなければならない」と語り、中国代表とのレベルの差を説明した。[2]
所属クラブ
- 上海申花 2002-2010
- → グラスゴー・セルティック(レンタル移籍) 2005-2006
- 杭州緑城足球倶楽部 2010-
タイトル
- 2001年 アジア年間最優秀ユース選手賞
- 2010年 東アジアサッカー選手権2010 優勝・MVP
出典
外部リンク