本多重次
本多 重次(ほんだ しげつぐ、享禄2年(1529年)- 文禄5年7月16日(1596年8月9日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての徳川氏の家臣。父は本多重正。通称は八蔵、作十郎、作左衛門。子は後に越前国丸岡藩主となる本多成重。
生涯
重次の名より、通称の作左衛門とその勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。天野康景、高力清長と共に徳川家康三河時代からの三河三奉行の一人で、行政面に力を発揮した。鬼の名を取るように、法に対して厳格な人物で他人に対しても厳しかった(間違っていると思えば、主君である家康に対してすら激しく指摘した)が、恩賞に対しては公平清廉で、法令に対しても仮名書きでわかりやすく書いて民衆に触れやすいように記したと言われている。
奉行としての行政の功績だけではなく、三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し、戦功を挙げた。また、小田原征伐においては、自ら勧誘した向井正綱と共に梶原景宗率いる北条水軍を迎撃してこれを打ち破っている。
しかし、小田原征伐が終わって、家康が北条氏旧領の関東に移されてから後に豊臣秀吉の命を受けた家康により、上総国古井戸(小糸とも。現在の千葉県君津市)3,000石にて蟄居を命じられた。
その後、蟄居先が下総国相馬郡井野(現在の茨城県取手市井野)に変更される。文禄5年(1596年)7月16日、68歳で死去。墓所は茨城県取手市にある茨城県指定史跡「本多重次墳墓」。福井県坂井市丸岡町の本光院にも墓がある。
人物・逸話
- 結城秀康の母・於万は家康の正室・築山殿の奥女中を務めていたが、家康の手が付いて秀康を身籠った。家康は築山殿の悋気を恐れ、於万を重次のもとに預けた。秀康は於万が重次に匿われている中村家住宅で誕生した。
- 戦傷のため、片目片足で指も何本か欠損していたと言われている。
蟄居の理由
重次は度々秀吉の怒りを買っていた。
- 家康の次男・於義丸(後の結城秀康)と共に人質として秀吉に差し出されていた息子・仙千代(後の本多成重)を「母親の看病をさせたい」と嘘をついて呼び戻した[1]。。
- 天正14年(1586年)、家康が秀吉に臣従を誓い上洛する代償として秀吉の生母・大政所が人質として家康に差し出された際、大政所の世話役を任された重次は、大政所を粗略に扱い、大政所のいる建物の周辺に薪を大量に積みあげ、もし上方で家康の身に変事があればただちに大政所を焼き殺す姿勢を見せた。これは、家康の無事の帰国を祈って脅しをかけたと言われているが、後にこのことを大政所から聞かされた秀吉はさすがに不快感を表し、家康に対して「重次のような無礼者は家臣の座から放逐せよ」と命令した。
- 小田原征伐からの帰阪の途上、秀吉が岡崎城に立ち寄った際、城将の重次は迎えに現れず、秀吉は三度も使者を遣わして催促したが重次が応じなかった[1]。
一筆啓上
日本一短い手紙として有名な「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙である。この「お仙」は当時幼子であった嫡子仙千代(成重・後の丸岡藩主)のことである。なお、手紙の原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」である[2]。
注釈
関連項目
- 光明山傳教院本願寺
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