慕容儁
景昭帝 慕容儁 | |
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前燕 | |
2君主 | |
王朝 | 前燕 |
在位期間 | 349年 - 360年 |
都城 | 鄴 |
姓・諱 | 慕容儁 |
字 | 宣英 |
諡号 | 景昭皇帝 |
廟号 | 烈祖 |
生年 | 319年 |
没年 | 360年 |
父 | 慕容皝(次子) |
陵墓 | 龍陵 |
年号 |
元璽 : 352年 - 357年 光寿 : 357年 - 359年 |
慕容儁(ぼようしゅん、拼音:Mùróng Juàn/Jùn)は五胡十六国時代の前燕の第2代君主。当初は燕王を自称したが(在位:349年 - 352年)、後に皇帝を称した(在位:352年 - 360年)。慕容皝(太祖)の次男で慕容恪、慕容垂、慕容納、慕容徳の兄。子に慕容曄・慕容暐・慕容泓・慕容沖。
生涯
永和4年(348年)の父の卒去に伴い、翌年に第2代燕王に即位する。この年、東晋の穆帝の使者の陳沈は慕容儁に使持節、侍中、大都督、河北諸軍事の都督、幽州・冀州・并州・平州4州の牧、大将軍、大単于、燕王を下賜し、正式に燕王となった。
さらに同年、後趙の石虎が死去して後趙内部で皇位継承争いが起こり、事実上国内が崩壊すると、永和6年(350年)、慕容儁はこの好機を見逃さず後趙に侵攻し薊(現在の北京に当たる領域)を奪い、そこを前燕の都とした。同年、冉閔が後趙を滅ぼすと慕容儁は冉魏に侵攻、永和8年(352年)には冉魏を滅ぼし、大燕皇帝として即位を果たした。翌年、冉魏の都だった鄴に遷都している。
しかし聡明で知られた皇太子の慕容曄が早世したため、升平元年(357年)に止むなく3男の慕容暐を太子に立てる。晩年はこの皇太子の若さと力量を案じていたという。建熙元年(360年)に42歳で崩御、慕容暐が皇位を継承した。
人物
- 身長は8尺2寸(約188cm)、読書を好み学問に秀で、武芸も優れ、性格は威厳があって重々しく、行動は慎み深く礼儀作法に適ったものであった。
関連項目
参考文献
- 『晋書』(慕容儁戴記)
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