山﨑勇喜

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世界陸上大阪大会での山崎

山崎 勇喜(やまざき ゆうき、1984年1月16日 - )は日本男性陸上競技選手。専門は競歩50km競歩日本記録保持者。2008年北京オリンピックでは50Km競歩で7位入賞を果たした。富山県出身。長谷川体育施設を経て、現在は陸上自衛隊自衛隊体育学校)に所属。階級は二等陸曹自衛官である。

来歴

学生時代

富山商業高校時代の2001年9月23日5000m競歩にて日本高校新記録、日本Jr最高記録となる19分35秒79を記録。2002年1月の日本陸上競技選手権大会20km競歩では高校生ながら1時間20分43秒の日本ジュニア最高記録(当時)で優勝。

なお、2011年6月現在も、5000m競歩の日本高校記録保持者である[1]が、インターハイには北信越大会で失格したため出場していない。また、関東・日本インカレのタイトルとも無縁。順天堂大学スポーツ健康科学部スポーツマネジメント学科へ進学した。

釜山アジア競技大会20Km競歩は、歩幅違反のため途中で失格。2004年アテネオリンピックに日本代表として出場したが、20km競歩は途中棄権、50km競歩は16位に終わった。

2005年8月、世界陸上ヘルシンキ大会の50Km競歩では途中で嘔吐するアクシデントが有りながらも、結果8位入賞を果たした。

社会人時代

2006年、順天堂大学を卒業後に社会人陸上の強豪・長谷川体育施設へ入社。同年4月16日日本陸上競技選手権大会50km競歩に出場し、3時間43分38秒のタイムで日本記録を更新する。同年のドーハアジア競技大会は20km競歩で出場したが4位に留まった。

2007年9月、世界陸上大阪大会男子50km競歩に出場。序盤から世界記録保持者で同大会に優勝したネーサン・ディークスらと先頭争いを繰り広げたものの、レース終盤で暑さと疲労により極端に失速。意識朦朧とする中、競技役員の誘導ミスという大失態により、規程の周回数を1周残して陸上競技場長居スタジアム)へ入ってしまい、レース周回不足でゴールした山崎は途中棄権という扱いとなった[2]。大会組織委員会は運営ミスを認め、山崎に対し謝罪した。なおこの世界陸上大阪大会は、翌2008年開催の北京オリンピック日本代表選考レース[3] も兼ねており、審判員及びコース誘導員のミスが無ければ8位に入賞し、その時点で北京五輪代表に内定する可能性があった。なお、1996年アトランタオリンピックの同種目でも、Duane Cousins(オーストラリア)が係員の誘導ミスにより棄権扱いとなっている。

  • しかしこの誘導ミスが無くても、山崎本人は「8位入賞は厳しかった」と言っている。実際残り5kmからフラフラになり、残り3kmを過ぎて5位→9位へと順位を落としていたため、完歩しても最終的には15位前後まで後退してのゴールと推測された。またコーチである鈴木従道は「あのまま歩き続けてたら途中で倒れていたかもしれない」とも語っている。

2007年9月、全日本実業団対抗選手権の男子10000m競歩で優勝。2006年に続いて2連覇を果たす。また、強化の一環としてここ数年、日本競歩チームが取り組んでいるサロマ湖100キロウルトラマラソンを競歩で出場し、完歩している。

2008年8月、北京オリンピック男子50km競歩では、体調万全で臨めなかったものの、3時間45分47秒の7位でフィニッシュ。オリンピックで競歩の種目では、男女を通じて日本勢初の入賞となった。

2008年10月の全日本50km競歩高畠大会2009年4月の日本陸上競技選手権大会50km競歩で日本記録を更新。同年8月、世界陸上ベルリン大会の男子50キロ競歩に出場したが、途中3度の歩型違反を取られて失格、完歩は出来なかった。

2010年5月のワールドカップ競歩チワワ大会50km競歩で日本選手初の6位入賞。11月のアジア大会の代表に選ばれていたものの、故障のため欠場した。

2012年4月15日、日本選手権に出場した。3時間41分47秒で優勝し、ロンドンオリンピックへの派遣標準記録の3時間52分も切り、3大会連続でのオリンピック出場が決定した[4]

自己記録

脚注・出典

外部リンク