実吉安純
実吉 安純(さねよし やすずみ、1848年4月23日(嘉永元年3月20日) - 1932年(昭和7年)3月1日)は、日本の医学者、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍軍医中将。海軍軍医学校校長、海軍省医務局長、大本営海軍医務部長、東京慈恵会医院専門学校(現、東京慈恵会医科大学)校長、貴族院議員などを歴任した。勲一等旭日大綬章受章。子爵。慈恵医大の創設者である高木兼寛と共に、海軍の脚気撲滅に尽力したことで知られている。
経歴
薩摩藩士・実吉安福の二男として生まれる。戊辰戦争に参戦の後、明治2年(1869年)6月、順天堂に入塾し、のち大学校に移る。
明治4年(1872年)12月、兵部省13等出仕(海軍病院分課)・医務局当直として海軍軍医の歩みを始めた。兵学寮出勤、「大阪丸」乗組、海軍医務局学舎長を経て、1876年(明治9年)8月、大軍医に昇進し海軍本病院に配属された。1877年(明治10年)3月、西南戦争に征討軍団本営付として出征し、のち征討第4旅団付に異動した。
1879年(明治12年)7月、イギリスに留学し、ロンドンの聖トマス病院医学校で学び、1885年(明治18年)9月に帰国。翌月、軍医中監に進み軍医学舎勤務となる。1886年(明治19年)4月、海軍軍医学校教授に就任。同年5月から1891年(明治24年)3月まで警察医長を兼務した。1889年(明治22年)4月、海軍軍医学校長となる。1891年8月、医学博士号を取得。1892年(明治25年)8月、海軍軍医総監に進級し海軍中央衛生会議議長に就任。1897年(明治30年)4月、海軍省医務局長となる。1905年(明治38年)12月、予備役に編入され、1913年(大正2年)2月、後備役を経て、1915年(大正4年)2月に退役した。
1900年(明治33年)5月、日清戦争における功により男爵を叙爵。1905年(明治38年)12月、貴族院議員に選出された。1907年(明治40年)9月、日露戦争における功により子爵に昇爵。1920年(大正9年)4月、東京慈恵会医院専門学校長に就任した。他に日本赤十字社評議員、日本医師共済生命保険社長を務めた。
親族
- 長男 実吉純郎(東京慈恵会医科大学教授)
- 二男 実吉敏郎(海軍大佐[1])妻は志賀直温の長女
- 五男 実吉雅郎(日揮株式会社創設者)
- 六男 実吉捷郎(ドイツ文学者)
- 孫 実吉純一(純郎の長男、東北帝大教授・東京工業大学教授)
- 孫 実吉達郎(動物学者、ノンフィクション作家)
- 孫 実吉峯郎(生化学者、帝京科学大学教授)
- 曾孫 さねよしいさ子(達郎の娘、シンガーソングライター)
出典
- ^ 『日本陸海軍総合事典』「実吉安純」