太郎右衛門橋

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埼玉県道12号標識
太郎右衛門橋(2012年11月)

太郎右衛門橋(たろううえもんはし)とは埼玉県桶川市川田谷と川島町東野の間に架かり、荒川を渡る埼玉県道12号川越栗橋線の橋である。荒川に数多くかかる橋の中で重忠橋と並び、数少ない人名がついた橋である[1][2]

概要

河口から53.6 kmの地点に架かる[3][4]橋長700.5メートル、幅員8.7メートル[5]、有効幅員8.0メートル(車道6.5メートル、歩道0.75メートル×2[6])、最大支間長80メートル[7]の鋼単純箱桁橋(渡河部を含む3径間は鋼連続箱桁橋)である。また、埼玉県の第一次緊急輸送道路に指定されている[8]。橋の管理者は埼玉県である[3]。橋の右岸側は荒川沿いの低地となっていて高い堤防が設けられているが、左岸側は大宮台地の縁になっており連続した堤防が設けられていない。また、右岸側は横堤に接続され、道路がその天端を通っている。橋の前後のアプローチ区間である取り付け道路は両岸側とも築堤で整備されている。車道の両側に幅員の狭い歩道がある他、幅員の広い歩道が欄干を隔てた上流側に密接して設置されている。また、桶川駅川越駅を結ぶ東武バス川越04系統路線の走行経路である。桶川市寄りのバス停は「柏原」が最寄り。2004年(平成16年)に六堰(新六堰頭首工)の管理用道路である重忠橋が架かるまでは唯一の人名がついた橋であった[1]

歴史

1940年の橋

冠水橋の太郎右衛門橋(1955年頃)

この場所には橋ができる前には私設の渡し場があり、その運営者の名前が後の木製の橋(板橋)の名前となった[2][1]。この渡しについては渡船二艘を有する中山道桶川宿川越を結ぶ交通路で、渡船料は1889年(明治22年)当時は徒歩は1人で三厘、荷馬は1で八厘であった[9]。また渡船場には江戸時代の末から大正時代にかけて太郎右衛門河岸(川田谷河岸とも呼ばれた)が併設されていた[10][9]。 最初にこの場所に橋が架けられた年代は定かではないが明治末期には既に架けられていたもので、大水によって橋が度々流失する被害にあったと言われている[6]。橋は木造板橋で、通行料を徴収する賃銭橋であった。なお、渡しはこの板橋が架けられた後も使用は継続され、1940年(昭和15年)頃に冠水橋が架けられた後に廃止された[11][9]

1940年(昭和15年)に冠水橋架設の陳情書が県に提出され、木造板橋の冠水橋(かんすいきょう)が架けられた[9]。橋長64.3メートル、幅員3メートル[12]で上流側に丸太を斜めに傾けた木組みの流木避けが設置されていた。道幅が狭く片側交互通行であり、重量制限が設けられていた。河川区域内の高水敷に架けられた冠水橋なため、洪水のたびに通行止めになり、1965年(昭和40年)[6]9月17日の台風24号による洪水で流失した[13]。県は2541万4000円の工事費を掛けて1966年(昭和41年)3月25日開通予定で復旧工事が進められた[13]。橋は通行止めになりその間、仮設の橋が架けられた[13]

1966年の橋

1966年(昭和41年)に旧大芦橋や旧糠田橋とよく似た外見を持つ、鋼管パイル製の橋脚を持つ木製桁の冠水橋に架け直された[6]。橋脚は太い鋼管パイルを3本立てて上・下流側に鋼管製の斜材を配した23.5メートルの揺れ止めが設けられている[6]。欄干は増水時に備えて取り外しが可能で、鉄パイプを立ててロープを張った簡易な物である。橋長63メートル[6]、幅員4.5メートル[13]。片側交互通行と重量制限は引き続き設定されていた。 この橋は永久橋が完成する直前の1971年8月30日の15時20分に台風23号の洪水で流失した。自動車やトラックなどは開平橋や御成橋に迂回し、路線バスは荒川を境に折り返し運転する措置を取った[14]。冠水橋は現在の橋に付け替えられた際に役目を終えて廃止となり撤去された。冠水橋の遺構は残されていないが、痕跡として水位が低い時に川の中に橋脚の跡を認めることができる。また、その取り付け道路は現在の橋のすぐ上流側に農道として現存している。

1971年の橋

冠水橋は出水時に交通が途絶える等の支障があったことから、桶川市長が会長となり、関係五市二町一村による太郎右衛門橋架設促進期成同盟が結成され、県に請願を行ったところ、国の第六次道路整備計画および県の総合復興計画の一環として具体化されることとなり[15][16]、県主導の下1966年(昭和41年)11月19日に着工[6]した。橋の施工は 東日本鉄工株式会社が担当した[17]。 永久橋の建設当時、太郎右衛門橋以北で永久橋の橋は、熊谷市に架かる荒川大橋と鴻巣市に架かる御成橋の2本だけで、それ以外は全て冠水橋であった[14]。 1966年度に橋や取り付け道路の用地買収に着手し[18]1967年(昭和42年)度には下部工(橋脚)の工事に着手した[16]1970年(昭和45年)7月には12基ある橋脚が完成し[18]、1971年5月に上部工で橋桁の骨組みである鋼製の箱桁の設置と合わせて取り付け道路の工事が完了した。

そして今までの橋の川下の位置に現在の永久橋が完成し、1971年(昭和46年)11月20日に開通した[5][19][6]。開通式では国、県、地元自治体の関係者230名による渡り初めや、埼玉県副知事と桶川市長、川島村長の3人によるテープカットが執り行われた[5]。総工費は6億8269万5千円であった[5]。また、川島町側の取り付け道路は右岸堤防に沿ってクランク状に急カーブしていたが、永久橋化の際、南側に幅員7.2メートルの緩やかなS字カーブの道路に付け替えられ交通が円滑化された。付け替え前の道路は現在でも存続している。

永久橋は当初歩道は上流側と下流側に設置されていたが、幅員0.75メートル[12][5]と狭隘で車道との間に段差があり、交通量の増大に伴い通行者が危険に晒されるようになったため、1997年(平成9年)3月[19]上流側に歩道専用の橋が3径間鋼連続箱桁橋として架橋された。架橋の際には専用の橋脚を別に立てたのではなく、既存の橋脚を上流側に腹付拡幅して設置された。

付近

河道の中に残る旧太郎衛門橋の痕跡。奥の橋は圏央道の荒川渡河橋

1979年(昭和54年)と1985年(昭和60年)に実施された魚類捕獲調査では、ゲンゴロウブナオイカワが多くとれた[20]

荒川の河川敷は河道跡(旧荒川)が残る右岸(川島町側)に広くとられている。その広い河川敷を活用した、ホンダエアポートや桶川スポーツランドがあり、橋の上から滑走路やコースを見ることができる。桶川の下流方面および川島側の上流方面は農地となっている。

風景

その他

当橋の近傍に所在する埼玉県立桶川西高等学校が発行する生徒会誌の名称を「太郎右衛門橋」としている[21]

隣の橋

(上流) - 荒井橋 - 荒川渡河橋 - 太郎右衛門橋 - 樋詰橋 - 西野橋 - (下流)

脚注

  1. ^ a b c 昭和57年11月7日『埼玉新聞』5頁。
  2. ^ a b 埼玉県県民部県史編さん室『荒川 人文III -荒川総合調査報告書4-』453頁 埼玉県、1988年2月25日。
  3. ^ a b 荒川上流河川維持管理計画【国土交通大臣管理区間編】 (PDF) p. 98 - 国土交通省 関東地方整備局、2015年7月5日閲覧。
  4. ^ 企画展「荒川の橋」荒川・隅田川の橋(amoaノート第8号)” (PDF). 荒川下流河川事務所(荒川知水資料館) (2004年3月27日). 2005年11月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月14日閲覧。
  5. ^ a b c d e 『市制10周年記念 広報おけがわ縮刷版 第一巻』 583頁 桶川市役所総務部広報広聴課、1980年9月10日。
  6. ^ a b c d e f g h 『川島町史 地史編』339頁。
  7. ^ 彩の国(92)の主な橋一覧 (PDF) - さいたま橋物語(埼玉県ホームページ)、2015年7月5日閲覧。
  8. ^ 埼玉県の緊急輸送道路 - 埼玉県ホームページ、2015年7月5日閲覧。
  9. ^ a b c d 『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』30頁。
  10. ^ 『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』19頁。
  11. ^ 荒川太郎右衛門地区自然再生事業自然再生全体構想 (PDF) p. 8 - 国土交通省関東地方整備局 荒川太郎右衛門地区自然再生協議会、2006年5月、2015年7月5日閲覧。
  12. ^ a b 梶 祐二 編集『埼玉大百科 第3巻』304頁 埼玉新聞社、1974年11月15日。
  13. ^ a b c d “荒井橋など工事開始 総工費五千七百万 来春三月には開通へ”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 2. (1965年12月18日) 
  14. ^ a b 『川島町史 資料編 近・現代2 川島領と水』209頁。
  15. ^ 『川島町史 資料編 近・現代2 川島領と水』207頁
  16. ^ a b 昭和45年7月27日『埼玉新聞』2頁。
  17. ^ 橋梁年鑑 太郎右衛門橋 詳細データ - 一般社団法人 日本橋梁建設協会、2015年7月5日閲覧。
  18. ^ a b 『川島町史 資料編 近・現代2 川島領と水』208頁。
  19. ^ a b 桶川市主要年表 (PDF) - 桶川市ホームページ、2015年7月5日閲覧。
  20. ^ 『荒川 自然』547頁。1979年にはゲンゴロウブナ63、オイカワ22、ギンブナ5、ハス4、ウグイ3、ツチフキ2、キンブナワタカライギョ各1。 1985年にはゲンゴロウブナ51、オイカワ28、ニゴイ・ハス各4、コイ・ライギョ各2、ツチフキ1。
  21. ^ 桶西だより 平成25年4月19日号 - 桶川西高等学校教務部、2015年7月5日閲覧。

参考文献

  • 埼玉県『荒川 自然』(荒川総合調査報告書1)、1987年3月25日。
  • 『川島町史 地史編』、川島町、2004年3月25日。
  • 『川島町史 資料編 近・現代2 川島領と水』、川島町、2001年3月30日。
  • 『市制10周年記念 広報おけがわ縮刷版 第一巻』 桶川市役所総務部広報広聴課、1980年9月10日。
  • 埼玉県立さきたま資料館編集『歴史の道調査報告書第七集 荒川の水運』、埼玉県政情報資料室発行、1987年(昭和62年)4月。
  • 梶 祐二 編集『埼玉大百科 第3巻』 埼玉新聞社、1974年11月15日。
  • “七年がかりの架橋工事 川島村と桶川町を結ぶ太郎右衛門橋 47年完成にメド”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 2. (1970年7月27日) 
  • “郷愁を呼ぶ人名の橋 周辺には飛行場なども 桶川の地にある太郎右衛門橋”. 埼玉新聞 (埼玉新聞社): p. 5. (1982年11月7日) 

外部リンク

座標: 北緯35度59分11秒 東経139度30分55秒 / 北緯35.98639度 東経139.51528度 / 35.98639; 139.51528