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大塩平八郎

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大塩 平八郎(おおしお へいはちろう、1793年3月4日寛政5年1月22日) - 1837年5月1日天保8年3月27日))は、江戸時代後期の儒学者大坂町奉行所与力大塩平八郎の乱を起こした。

平八郎の父も大坂町奉行所与力であり、初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目であり、代々与力として禄を受けていた。通称は平八郎、は正高、のち後素(こうそ)、は子起、号は中斎。 大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。

生涯

奉行所時代は清廉潔白な人物として不正を次々と暴く。特に、西町奉行同心弓削新左衛門の汚職事件では内部告発を行い、その辣腕ぶりは市民の尊敬を集めた。腐敗した奉行所内では彼を憎む者も少なからずいたが、上司の東町奉行高井実徳の応援があればこそ活躍できた。1830年の高井の転勤とともに与力を辞し、養子の大塩格之助に跡目を譲る。学問は陽明学を学び、知行合一を信じて、自宅で洗心洞という私塾を経営し、頼山陽などとも交際を持った。

天保の大飢饉の際、幕府への機嫌取りのために大坂から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって、大坂の民衆が飢餓に喘いでいることに心を痛め、当時の東町奉行跡部良弼に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかし全く聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけた。善右衛門が跡部に相談した結果「断れ」と命令されたため、これも実現しなかった。

その後は蔵書を処分するなどして、私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、門人に砲術を中心とする軍事訓練を行った後、1837年に門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、門人の密告(奉行所が送り込んだスパイという説もある)によって奉行所の知るところとなったこともあって、すぐ鎮圧された。逃亡生活中、四ツ橋のあたりで刀を捨て、のとある商家の蔵に隠れていたが、数ヶ月ほどの後、所在が発覚し(その理由のうち有名なものの一つとして、いつも2人分の食事が日に1度必ず余分にあるのを不審に思った商家の女中が奉行所に密告したという説がある)、養子の格之助と共に火薬を用いて自決した。享年45。

大塩終焉地

人物・逸話

「友人になりたいと思った相手に対して、なんらかの邪心を抱いているならば、親しくすべきではない」との言葉から、極めて厳格な人間性が伺われる。また、食事中に幕政の腐敗に怒ったあまり、本来なら歯が立たないほどの硬い鰯(カナガシラともいわれる)の頭を噛み砕いてしまったことがある。ストイックな生活を送り、夕方には就寝、午前2時に起床、潔斎と武芸の後朝食、午前5時には門弟を集めて講義、その後出勤というサイクルであった。その講義も厳格そのもので、門人たちは緊張のあまり大塩の目が見られなかったという。頼山陽からは「小陽明」とその学識ぶりを称賛される一方で、「君に祈る。刀を善(ぬぐ)い、時に之を蔵せよ。」とその直情的な性格を忠告された。なお、10日余りも眠ることが出来なかった時があったという。

生存説

大塩平八郎の乱が鎮圧されて大塩が自害した後、最期の状況から「大塩はまだ生きており、国内あるいは海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また同年アメリカモリソン号が日本沿岸に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説も流れた。これに、大塩一党の遺体の磔刑をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。

幕府としても、叛徒が元役人で武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったと考えられるが、更に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は、事件1年後に磔を行ったが、塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされるという異様な風景で、当然大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説に拍車をかけることとなってしまった。

追悼碑・墓

平八郎と格之助の墓

現在、大塩の終焉地とされる大阪市西区靱本町1丁目18番12号(天理教飾大分教会の敷地内)に、追悼碑がある。

平八郎と格之助の墓は大阪市北区成正寺にある。戦災で破損した墓を1957年に復元したものであり、まだ新しい。

著書

  • 『洗心洞箚記』
    • 訳書として、吉田公平訳著『洗心洞箚記:大塩平八郎の読書ノート』上下(たちばな出版〈タチバナ教養文庫〉)がある。

関連文献

関連項目

外部リンク