偽の真空

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スカラー場 (φ) における真空エネルギー状態 (E) のグラフ。真の真空 (true) は偽の真空 (false) よりも基底状態のエネルギーが低い。偽の真空が真の真空へ移行するには、高エネルギーの粒子を与えるか、トンネル効果が必要となる。

偽の真空(ぎのしんくう・False vacuum)とは、基底状態エネルギーが高い、準安定状態真空を示す語である。偽の真空が、より低いエネルギーの低い状態の真空に移行した場合、その真空は対義語として真の真空(しんのしんくう・True vacuum)と呼ばれる。宇宙誕生から10-36秒から10-34秒後に発生したインフレーション期に、我々の宇宙は偽の真空から真の真空へ相転移したとされているが、実は今の真空は未だ完全な真の真空ではないという理論もある[1][2][3][4][5][6]

概要

古典的な理論における真空は「物質もエネルギーも無い空間」であるが、量子論における真空は仮想粒子対生成対消滅が常に発生しており、決してエネルギーがゼロの空間ではない。したがって真空はあらゆるに対して最低のエネルギーを持っている[7]。しかし、真空に関しても基底状態に至っていない場合を考えることが可能である。(スカラー場におけるポテンシャル極小値を考える事ができる。) そのような場合、よりエネルギーの高い状態の真空は準安定状態であり、ポテンシャルの極小値に停留しているにすぎず、何かをきっかけとしてよりエネルギーの低い状態の真空へと移行する可能性がある[4][6]。その場合、基底状態に移行する前の真空は、真空の定義には当てはまらないため、これを「偽の真空」と呼び、基底状態に移行した後の真空は定義に当てはまるため、偽の真空の対義語として「真の真空」と呼ばれる[注釈 1]

インフレーション理論と偽の真空

現在の宇宙論では、宇宙の平坦性や一様性を説明するために、ビッグバンの前の宇宙誕生から10-36秒から10-34秒後の間に、インフレーションと呼ばれる指数関数的な急激な膨張があったとされている。このインフレーションの原動力となったのは、真空がより低いエネルギーの状態へと移行した際に解放されたエネルギーだとされている。この場合、相転移前の真空が偽の真空、相転移後の真空が真の真空となる。偽の真空から真の真空へと移行するのを、物質の状態変化に喩え、これを「真空の相転移」と呼ぶ場合もある。初期のインフレーション理論(古いインフレーション)では、偽の真空と真の真空の間に明確なポテンシャルの障壁があり、それをトンネル効果によって乗り越えることで相転移が発生すると考えられていたが、後に述べられたインフレーション理論(ゆっくり転がるインフレーション)では、明確なポテンシャルの障壁はなく、偽の真空から真の真空へと至る緩やかなポテンシャルの坂があるとされている[7][8][9][10]

現在の真空の不安定性

先述の通り、現在の宇宙は真空の相転移を経験したため、真空の状態としては最も低いエネルギーの状態になっていると考えられている。しかし、現在の真空が真の真空であるという確証となる理論はなく、極めて長い時間スケールの準安定状態、すなわち偽の真空の状態にあるのではないかという説が存在する[2][11]

我々の宇宙の真空が真の真空なのか偽の真空なのかは、ヒッグス粒子トップクォーク質量により知ることが出来る[1][11][12][13]。このうちヒッグス粒子の質量は、2012年7月4日に発表された値では 125.3±0.5 GeV[14] または 126.0±0.4 GeV[15] とある程度正確に求まっているが、トップクォークの質量は 172.9±1.5 GeV[16] とやや精度が荒い。このため、現在の理論では真空の安定性は安定と準安定のちょうど境界に位置する事になる[1][12]。なお、ヒッグス粒子を事実上発見したという発表のあった2013年3月14日以降に、一部に「真空が準安定状態である」事が確定したというような記事が存在するが、これはトップクォークの質量の不確かさを考慮しないで書かれた誤報である[17]。トップクォークのより正確な結果を求めるには、現在あるテバトロン[注釈 2]LHCでは難しく、次世代の加速器であるILCの登場を待たないといけないとされている[1]

真空の崩壊

もし、現在の我々がいる宇宙の真空が偽の真空だった場合、ポテンシャルの極小値に停留している状態に過ぎない。例えると、坂道を転がるボールが、坂を下りきる途中の穴に転がり落ちた状態である。ポテンシャルの障壁を乗り越える、すなわち落ちたボールが外に飛び出て再び坂を転がるには、ボールが穴から強く蹴り上げられるか、穴の横の地中を直接通り抜けて再び地面に戻るかのどちらかの方法をとらなければならない。現在の真空が相転移するこの現象を「真空の崩壊」と呼ぶ[3]

ボールを強く蹴り上げるというのは、真空に高エネルギーを与える事である。具体的には、高エネルギーの粒子の衝突で発生する。このような例で身近なのは、加速器で粒子を加速させ衝突させる実験である。実際、LHCの建設や運用の反対運動の中には、真空を崩壊させる可能性も理由として含まれていた。しかし、最大で約10TeVの出力を持つLHCに対し[18]、自然界には超高エネルギー宇宙線と呼ばれる、最大で320EeV[19][注釈 3]と、実にLHCの3000万倍もの高エネルギーな宇宙線が絶えず地球大気を構成する粒子に衝突している。このため、宇宙のどこかで真空の崩壊が発生したとしても、それは自然現象における高エネルギー現象であり、人為的な行為で発生する可能性はきわめて低い[20]

ボールが地中を移動するというのは、古典的に考えればトンネルを掘らない限りは不可能に思えるが、量子論では不確定性原理により、あたかもトンネルを掘ったかのように障壁を乗り越えてしまう事がある。これをトンネル効果と呼ぶが、これは確率の問題であり、どのような場合に起こるかは不明である。ただし、ポテンシャルの障壁が大きい場合には、その確率は低くなるが、ゼロにはならない[12]

仮に真空の崩壊が宇宙のどこか1点でも発生した場合、ポテンシャルの差による膨大なエネルギーが生ずる。それによって、周りの偽の真空も連鎖的に真の真空へと相転移する連鎖反応が発生する。それはちょうど、偽の真空に包まれた空間の1点に真の真空の泡が発生し、それが膨張するように見える[17][12]。発生した真の真空は体であり、エネルギーは体積に比例するため、真の真空の泡の単位表面積あたりのエネルギーは泡の膨張と共にますます増加していく。泡は光速で膨張すると考えられ、泡の表面は極めて高エネルギーであるため、触れた全ての構造は一瞬にして崩壊してしまう[17]。また光速でやってくる以上、実際に泡に衝突するまで、観測者が泡の存在を知ることは不可能である[12]。真の真空に相転移すると各種の物理定数は変化するため、どの値をとるにせよ、現在我々が知る構造は発生し得ないと考えられる[3]

なお、実際に真空の崩壊が起こったとしても、先述の通り真の真空の泡は光速でやってくる。そのため、この宇宙のどこかで今この瞬間発生したとしても、人類が住んでいる場所[注釈 4]に真空の崩壊が達するのは数十億年も先であると推定される[17]。なぜならば、真空の崩壊をもたらすような物理現象は宇宙空間のどの場所においても均等な確率で発生するため、数十光年という極めて小さな範囲で発生する確率よりも、数十億光年という大きな範囲で発生する確率の方がはるかに高いためである[12][21][注釈 5]。もっとも真の真空の泡が観測できないものである以上、それは既に発生しており、人類が住んでいる場所の近くにまで迫っている可能性も、否定はできない事になる。

注釈

  1. ^ なお、場の量子論において、物質もエネルギーも存在しない古典的な概念の真空を「真の真空」と呼ぶ場合があるが、それとは全く異なる用語である。
  2. ^ そもそもテバトロンでは、現在の真空が不安定であるという結果すら生じる可能性があるほど荒い。
  3. ^ この値は史上最も強力な宇宙線での記録。この宇宙線にはオーマイゴッド粒子という固有名がある。
  4. ^ 例えば地球
  5. ^ もし数十億年という時間スケールならば、先に太陽が寿命を向かえ、地球が死の星になっている方が早いかもしれない。

出典

  1. ^ a b c d The top quark and Higgs boson masses and the stability of the electroweak vacuum Physics Letters B
  2. ^ a b Is our vacuum metastable Astronomy Abstract Service
  3. ^ a b c Gravitational effects on and of vacuum decay Astronomy Abstract Service
  4. ^ a b Lifetime and decay of "excited vacuum" states of a field theory associated with nonabsolute minima of its effective potential Physics Abstract Service
  5. ^ Vacuum Instability and Higgs Scalar Mass Physics Abstract Service
  6. ^ a b Consequences of vacuum instability in quantum field theory Physics Abstract Service
  7. ^ a b The Decay of the False Vacuum The Astronomy Cafe
  8. ^ The Inflationary Universe: A Possible Solution to the Horizon and Flatness Problems Physical Review
  9. ^ Cosmology for grand unified theories with radiatively induced symmetry breaking Astronomy Abstract Service
  10. ^ AN ETERNITY OF BUBBLES? PBS
  11. ^ a b The Probable Fate of the Standard Model arXiv
  12. ^ a b c d e f If Higgs Boson Calculations Are Right, A Catastrophic 'Bubble' Could End Universe The two-way
  13. ^ Higgs boson and top quark masses as tests of electroweak vacuum stability Physical Review D
  14. ^ Observation of a new boson at a mass of 125 GeV with the CMS experiment at the LHC arXiv
  15. ^ Observation of a new particle in the search for the Standard Model Higgs boson with the ATLAS detector at the LHC arXiv
  16. ^ PDGLive Particle Summary 'Quarks (u, d, s, c, b, t, b', t', Free) Particle Data Group
  17. ^ a b c d Higgs Boson Will Destroy The Universe Eventually Science World Report
  18. ^ CERN announces start-up date for LHC CERN
  19. ^ The Oh-My-God Particle Fourmilab
  20. ^ How stable is our vacuum? Astronomy Abstract Service
  21. ^ Will our universe end in a 'big slurp'? Higgs-like particle suggests it might Cosmic Log

関連項目