乙支文徳

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乙支文徳
各種表記
ハングル 을지 문덕
漢字 乙支文德
発音 ウルチ・ムンドク
日本語読み: いつし ぶんとく
ローマ字 Eulji Mundeok
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乙支文徳(いつし ぶんとく、6世紀後半ころ - 7世紀初頭ころ)は、高句麗の将軍であり大臣。『三国史記』巻44・乙支文徳伝においては世系は不明とあるが、北朝鮮の平安道地方には「乙支文徳はソクダ山の者で、山に入り道を極め、悟りを開いた」という伝説が残っており、このことから北朝鮮の首都平壌近くの出身という推測もある[1]沈着にして精悍な資質と、知略に優れ、文章を能くしたとする。[要出典]の第二次高句麗遠征(612年)(隋の高句麗遠征)において、隋軍に偽りの降伏を申し入れ撤退を開始した隋軍に追い討ちをかけ大勝利を収めた。その功績は高く評価されてはいるが、戦後の文徳の動向は『三国史記』には記事が残っておらず、死の状況についても詳細は解らない。

薩水大捷

隋の煬帝による第二次高句麗遠征(612年)は、113万3,800人の兵を以て200万と号する大軍と、それを支える輜重隊による前代未聞の規模で行われた。左右それぞれ12軍に別れて兵を進め、宇文述于仲文らの9軍[2]鴨緑江の西辺に集い、高句麗と対峙していた。このときに乙支文徳は嬰陽王の命を受けて、隋軍の内実を探るために偽りの投降を行なった。隋軍の兵士たちが餓えていることを見て取った文徳は隋軍を抜け出し、高句麗軍に戻ってからは追ってくる隋軍を疲弊させる作戦を採った。宇文述らが追ってきたのに対し、一日に7回戦ってその度に負けた振りをして隋軍を引き寄せ、隋軍は薩水(清川江)を越えて平壌から30里ほどの山間に布陣することとなった。これを見て文徳は敵将于仲文に詩を書いて送り(次節#与隋将于仲文詩参照)、さらに「軍を引き上げられるのであれば、嬰陽王を隋の皇帝の仮御所へお連れしましょう」と言って再び偽りの投降をした。食料が乏しく兵士も疲労していたことと、平壌城の守りが堅くて陥落させられそうにないと悟った宇文述は停戦して隋に帰還しようとし、方陣を組んで軍を退却させた。そこへ文徳らは襲い掛かり、薩水を渡って戻ろうとしたところを徹底的に攻撃して、右屯衛将軍の辛世雄を戦死させるとともに隋軍に壊滅的な打撃を与えた。はじめに遼河を越えて高句麗に臨んだ隋の9軍30万5千人のうち、再び遼東城に戻ることができたのはわずかに2,700人であったという。この記念的な大勝利を、韓国・朝鮮では「薩水大捷」という。

乙支文徳の偽投降、脱出、七戦七敗の戦略については文徳の知略と、隋軍の失策があった。まず、隋の兵士が餓えていたことについては、遠路の出征に当たって支給された武器・衣料・食料があまりに重かったために食料を捨ててきた兵士が多く、出征後すぐに食糧難となっていた。また、于仲文は嬰陽王または文徳を捕虜として拘束するように煬帝の密命を受けていたが、そのことを知らされていない慰撫使の劉士龍が制止したため、文徳は解放されてしまった。さらに、文徳を逃したのちに宇文述は食料不足のために退却を検討していたが、煬帝の密命を果たせなかった于仲文が功なくして帰国することを嫌い、強引に文徳への追撃を主張したために余計な戦闘をしていたのである。

与隋将于仲文詩

"隋の将 于仲文に与ふるの詩"として伝えられる詩文(『三国史記』巻44・乙支文徳伝に所収)は以下の通りである。

神策究天文 ((隋軍の)優れた謀りごとは天の理を究め、)
妙算窮地理 (知略は地の理をも窮めるほどである。)
戦勝功既高 (戦勝の功績は既に甚だしく、)
知足願云止 (もう十分であることと認め、戦いを止められてはどうか?)

七戦七敗の末に隋軍を翻弄して引き付けた乙支文徳が、「隋軍はもう十分に勝ったから戦を止めてはどうか」と伝え、自らに戦う意志の無いことを示して隋軍を油断させようとしたものと見られている。

後世の評価

『三国史記』においては撰者金富軾の評として、乙支文徳伝(巻44)の末尾には、大国隋による未曾有の遠征を小国の高句麗が跳ね返して逆に撃滅することができたことは、独り乙支文徳の功績であるとしている。また金庾信伝(下・巻43)の末尾の評では、金庾信の功績を称える引き合いとしてではあるが、張保皐の武勇とともに乙支文徳の智略を顕彰している。現代の韓国の歴史教科書においては、契丹の侵入を退けた姜邯賛文禄・慶長の役(韓国では壬辰・丁酉倭乱と称する)で日本水軍に大勝利した李舜臣とともに、外敵の侵入から祖国を守った英雄の筆頭として掲げられている。 米韓合同の軍事演習のコードネームには、乙支文徳が大陸からの攻撃を追い返したことから「ウルチ」と付くものが多い(例:乙支フリーダムガーディアン)。

脚注

  1. ^ KBS WORLD - 乙支文徳
  2. ^ このときの9軍は、『三国史記』高句麗本紀には宇文述・于仲文のほかに、荊元恒、薛世雄、辛世雄、張瑾、趙孝才、崔弘昇、衛文昇によるものとする。

関連項目

参考文献