丸岡南陔
丸岡南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年7月21日) - 明治19年(1886年)1月8日)は江戸時代から明治にかけての学者、漢詩人。佐渡国雑太郡折戸坊長、佐渡奉行所修教館教授、維新後も島の教育に携わった。初名は伝蔵、通称は総四郎。諱は成章、字は子煥。屋号は難波屋。諡号は文憲先生。
生涯
文政8年(1825年)6月6日に生まれた[1]。家は代々佐渡国雑太郡折戸坊長、佐渡奉行所官庫出納掾を兼ね、醤油醸造を行っていた[1]。幼少より書を好み、特定の師は持たなかったものの、甲賀達斎等を先輩とし、詩を藤木竹窓に学び、間もなく天野恥堂兄弟、万歳東所、西村滄州、大平菰塘、岡崎棟庵、謙亭、棟斎等と交流を持ち、廉社を結び月次開筵を行った[2]。天保13年(1842年)家督を継ぎ、内外庶務、経理に当たり、父の代に振るわなかった家業を立て直した[1]。
弘化元年(1844年)3月、外舅川島如松に従い江戸に行き、妙義山、日光、会津を巡って帰郷した[1]。弘化2年(1845年)5月、江戸から田口江村が来島したため、これに師事した[2]。安政3年(1856年)8月、隊長渡部庸に従って江戸に行き、8月から10月まで滞在し[1]、江村邸で藤森天山、大沼枕山、菊池三渓、羽倉簡堂等と交流した[2]。
慶応2年(1866年)9月、修教館教授に就任し、士班に列した[1]。慶応3年(1867年)6月、再び江戸に行き、9月箱根温泉を訪れ、東海道を上って京都に行き[1]、大坂、大和、広島、厳島を巡って帰島した[2]。明治元年(1868年)佐渡奉行鈴木重嶺が江戸に避難し、管理者不在となった佐渡の金鉱を巡る政情不安が起こる中、隊長中山信安の命で井上幹、岩間政醇と京都に上り、太政官に統治者の派遣を訴えた[1]。
明治3年(1870年)、相川県漢学局に出仕し、明治4年(1871年)長男図南と共に東京に行き、その後も3回上京した[1]。明治6年(1873年)、越後国を通って奥羽地方に入り、金華山、松島、羽黒山、弥彦山[1]、象潟、立石寺等を廻った[2]。明治7年(1874年)、8年(1875年)にも越後に渡った[2]。明治7年(1874円)8月、雑太郡学区監督兼教師に就任した[1]。明治11年(1878年)、佐渡の役所を相川町から河原田町に移転する論議が立ち上がると、明治12年(1879年)1月、西浜郷の総代として新潟市に渡って新潟県庁に中止を訴えた[1]。明治14年(1881年)8月、公立相川中学校学務委員となるも、翌年辞職[1]。
明治17年(1884年)成徳に家督を譲り、加茂郡新穂村公立佐渡中学校に単身赴任した[1]。明治18年(1885年)12月29日夜、脳溢血により困睡状態となり、明治19年(1886年)1月8日死去し、相川町広永寺に葬られた[1]。40代からの深酒が祟ったものとされた[1]。
著書
- 『南陔遺稿』 - 明治23年(1890年)5月下旬菊池三渓序、明治22年(1889年)11月南摩綱紀序、明治35年(1902年)5月18日丸岡重五郎刊。
- 『戊辰西上録』 - 慶応4年(1868年)上京の記録。舟崎文庫蔵。
親族
- 祖父:丸岡惣三郎正義、剃髪して芦雪と号し、嘉永元年(1848年)6月没[1]。
- 祖母:松岡氏[1]。
- 父:丸岡南涛、通称は総兵衛、諱は正方、別号は怡斎、江戸の春木南湖に絵を学び、万延元年(1860年)8月没[1]。
- 母:児玉氏、四男三女を儲ける[1]。
- 妻:川島氏、三男二女を儲ける[1]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 丸岡成徳「先子南陔先生行述」明治21年1月、『南陔遺稿』巻之六27オ-31オ
- ^ a b c d e f g 『相川町誌』 p.333-342
参考文献
- 岩木拡『相川町誌』相川町、昭和2年
- 丸岡重五郎『南陔遺稿』吉川半七、明治35年