上田定
上田 定 | |
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上田 定(二等兵曹時代) | |
生誕 |
1916年10月24日 日本 広島県山県郡北広島町 |
死没 |
1941年12月8日(25歳没) アメリカ合衆国ハワイ準州真珠湾 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1934 - 1941 |
最終階級 | 海軍兵曹長 |
上田 定(かみた さだむ、1916年(大正5年)10月24日 - 1941年(昭和16年)12月8日)は日本の海軍軍人。太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃において特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した九軍神の一人。二階級特進により最終階級は海軍兵曹長。
人物・来歴
広島県出身。上田は5人兄弟姉妹の長男であった。中学を卒業後、呉海兵団に入団し、水雷学校普通科、舞鶴防備隊潜水学校、水雷学校高等科を修卒業。術科学校の高等科を卒業した下士官は、日本海軍の実務を担う人材であったが、上田の高等科卒業時の成績は抜群[1]であった。
真珠湾攻撃
1941年(昭和16年)12月7日午前0時42分(以下、現地時間)、真珠湾の湾口212度、7海里の地点[2]から艇長・横山正治海軍中尉とともに「伊一六潜水艦」から出撃した。特別攻撃隊特殊潜航艇(以下「特潜」 )5隻の先陣である。
午前10時4分、上田・横山艇は真珠湾口で米軽巡洋艦「セントルイス」を雷撃したが、命中はしていない[2]。この際、上田・横山艇が発した「われ奇襲に成功せり」の無電は母潜(伊一六)で受信されている[3]。「セントルイス」の砲撃を回避し潜行したが、母潜との会合地点には現れず、その後の消息は不明であった。21世紀に入り上田・横山艇と推測される「特潜」が真珠湾外で発見された[4]。
真珠湾特別攻撃隊指揮官は、「特潜」搭乗員4名が米海軍により埋葬され、うち1名は上田である可能性を指摘している[3]。墓は未発見である。
最後の帰省
1941年(昭和16年)9月、上田は帰省を許された。上田は発熱した状態で帰省したが、故郷は豪雨に見舞われ川が氾濫した状態であった。上田は村人と共に排水、土嚢積みなどに従事。働きぶりは凄まじいものであったと伝わる。夕方に40度を超す高熱で倒れ、翌日高熱が下がらないまま帰隊していった[1]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b 『九軍神は語らず』「軍神・上田定 - 嫁ももらわずに」
- ^ a b 『本当の特殊潜航艇の戦い』「第三章 甲標的作戦の実態」
- ^ a b 『決戦特殊潜航艇』「第二章 真珠湾攻撃」
- ^ NHK ONLINE2011年9月10日閲覧
参考文献
- 池田清『日本の海軍』(下)朝日ソノラマ ISBN 4-257-17084-0
- 牛島秀彦『九軍神は語らず』講談社文庫 ISBN 4-06-184709-0
- 佐々木半九、今和泉喜次郎『決戦特殊潜航艇』 朝日ソノラマ ISBN 4-257-17047-6
- 鳥巣建之助『日本海軍潜水艦物語』光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2674-3
- 福田啓二ほか『軍艦開発物語』② 光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2353-3
- 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社NF文庫 ISBN 978-4-7698-2533-3