三好和夫

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三好 和夫(みよし かずお、1914年 - 2004年11月9日)は、医学者医師。専門は神経学血液学[1]

東京都出身。東京大学医学部で血液学を研究した[2]

1954年3月、第五福竜丸操業中に被爆(ビキニ事件)した乗組員の診察と治療にあたった。1955年4月1日京都市で開かれた第14回日本医学会総会において、熊取敏之(国立東京第一病院)とともに「ビキニ放射能の臨床的、血液学的観察」と題して発表。「久保山愛吉さんの死因は単なる肝臓障害ではなく、死の灰によって致死量以上の放射線を受けたため」と、アメリカ合衆国側の見解に反論した[3]。また、ビキニ事件に遭った「ほかの船舶の乗組員の調査も必要だ」と主張していた[4]

徳島大学医学部に移り、1967年に三好型遠位型ミオパチーについて報告した[5]。医学部長を務め、のち徳島大学名誉教授。1985年武田医学賞を受賞。

脚注

  1. ^ 三好和夫氏死去 徳島大名誉教授”. 『共同通信』 (2004年11月10日). 2015年2月5日閲覧。
  2. ^ 加藤周一『続 羊の歌―わが回想―』岩波新書、1968年
  3. ^ ヒロシマの記録1955 4月”. 『中国新聞』ヒロシマ平和メディアセンター. 2015年2月5日閲覧。
  4. ^ (ビキニ60年)亡き船医「おれの身体が証拠」”. 『朝日新聞』 (2014年2月28日). 2015年2月5日閲覧。
  5. ^ Miyoshi K, et al., Four cases of distal myopathy in two families. Jpn. J. Hum. Genet. 12: 113. (1967)