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ボブ・アラム

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ボブ・アラム。2010年4月、ケリー・パブリクvs.セルヒオ・マルチネスのWBC・WBO世界ミドル級タイトルマッチを終え、ボードウォーク・ホールで行われた記者会見にて

ボブ・アラムRobert "Bob" Arum1931年12月8日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン生まれのプロボクシングプロモーター。同じ米国の黒人プロモータードン・キングとは、1970年代半ば以来の30年来のライバルであり、かつ、プロボクシングの本場で競争の厳しく新陳代謝激しい業界に置いて、2強プロモーター時代を長らく続けている辣腕としても知られている。またユダヤ系アメリカ人としても知られている。

1981年9月16日に行われた、シュガー・レイ・レナードvs.トーマス・ハーンズWBA&WBC世界ウェルター級王座統一戦をプロモートしたことに代表されるように、ヘビー級に偏重するきらいのあるライバルのドン・キングにくらべ、重量級・中量級に偏重しない傾向があり、また近年最大級のスターボクサーオスカー・デ・ラ・ホーヤバルセロナオリンピック優勝直後に史上最高の契約金100万ドルで獲得しをキャリアの中期までプロモートした。

人物・評価

ニューヨーク州立大学を卒業後、ハーバード・ロー・スクールで法学を修めたエリートで、1966年、プロモート業に乗り出すまでは司法省の企業担当弁護士として企業の脱税問題や独禁法にからむ問題を担当していた異色のキャリアの持ち主である。

スキャンダル続出のドン・キングに比べ一見トラブルの少ないイメージがあるが、海千山千の業界を生き残ってきたことからも分かるようにトラブルも少なくなく、過去に傘下の選手から何度もプロモート権やマネージャーの権利やファイトマネーなどめぐって裁判沙汰になったことがあり、さらに前述のオスカー・デ・ラ・ホーヤも途中、彼の主催するトップランク社から離脱している。

マイク・タイソンを育て上げた名トレーナーカス・ダマトは「北半球で最低な男」と罵倒するほど彼を忌み嫌っていた。また、シュガー・レイ・レナードの専属マネージャーだったマイク・トレーナー弁護士は、レナードの世界初挑戦の際に、王座獲得の場合に行う防衛戦について、格安の専属契約を押し付けられそうになった(トレーナーは交渉の末、これを拒否)件をきっかけに、アラムを毛嫌いしていた。

関連項目

外部リンク