ボスコ・ジュロヴスキー
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名前 | ||||||
カタカナ | ボシュコ・ジュロヴスキ | |||||
ラテン文字 | Boško ĐUROVSKI | |||||
キリル文字 | Бошко Ѓуровски | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | セルビア | |||||
生年月日 | 1961年12月28日(62歳) | |||||
出身地 | テトヴォ(Tetovo) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1978-1989 1989-1995 |
レッドスター セルヴェットFC |
163(9) 231 (41) | ||||
代表歴 | ||||||
1982-1989 1994-1995 |
SFRY マケドニア共和国 |
7 (3) 4 (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ボシュコ・ジュロヴスキ(マケドニア語:Бошко Ѓуровски / Boško Ǵurovski ボシュコ・ジュロフスキ、セルビア語:Бошко Ђуровски / Boško Đurovski ボシュコ・ジュロヴスキ、1961年12月28日 - )はユーゴスラビア、マケドニア共和国のサッカー選手。現在はセルビア国籍[1]。ポジションはミッドフィールダー。連邦人民共和国・マケドニア社会主義共和国のテトヴォ(現マケドニア共和国)出身。実弟のミルコ・ジュロヴスキもサッカー選手である。
現在は名古屋グランパスヘッドコーチ。日本での登録名は「ジュロヴスキー」。マスコミ等ではファーストネームの「ボシュコ」「ボスコ」とも表記される場合もある。
経歴
選手歴
1978年にユーゴスラビアの強豪レッドスター・ベオグラードで選手キャリアをスタート。在籍した11年間に中心選手の一人として4度のプルヴァ・リーガ、2度のカップ制覇に貢献した。
1989年夏に、スイスのセルヴェットFCに移籍し、1993-94シーズンのリーグ制覇に貢献した。
またユーゴスラビア代表としては1982年の初代表選出から1989年まで国際Aマッチ4試合に出場。マケドニア共和国の独立後はマケドニア共和国代表として国際Aマッチ7試合出場3得点を記録した。なお1979年に日本で開催されたワールドユース選手権ではユーゴスラビア・ユース代表としてプレーしている。
指導者歴
引退後は引き続きセルベットFCの育成部門のコーチとなり、2001年に古巣・レッドスターにアシスタントコーチとして復帰した。
2002年にはFKラドニチュキ・オブレノヴァツ(FK Radnički Obrenovac)の監督に就任したがわずか4ヶ月で解任され、FKラド・ベオグラードのコーチとなった(ジュロヴスキはこの年の7月から10月までオブレノヴァツに所属していた)。[2][3]。それにも関わらず、降格が避けられなくなり、シーズン2002-2003にあと3試合を残して辞職している。[4]。2004年から2シーズンはセルビア・モンテネグロリーグ2部のFKスレム(FK Srem)、2006年からは同じく2部のFKラドニチュキ・ニシュ(FK Radnički Niš)のそれぞれ監督を歴任。
2007年3月には、ドゥシャン・バイェヴィッチの後任としてレッドスターの監督となった。ドゥシャンはシーズン2006-2007ではうまく働き、クラブをセルビア・カップ優勝へと導いた。しかし、続くシーズン2007-2008ではレッドスターの成績は思わしくなく、UEFAチャンピオンズリーグでは苦戦を強いられた。2回戦ではレバディア・タリンを相手にベオグラードでは1:0で相手を下したものの、タリンでは1:2で敗北し、ジュロヴスキはレッドスター会長のドラガン・ストイコビッチによって解雇され、ミロラド・コサノヴィッチ(Milorad Kosanović)が後任に就いた。その後もジュロヴスキはスカウトとしてクラブには留まった。
2008年より名古屋グランパスの監督に就任したストイコビッチの指名により、同チームのヘッドコーチに抜擢された。2010年シーズンはチーム史上初のリーグ戦優勝に貢献し、優勝決定後はストイコビッチ監督に続いてチームメイトから胴上げを受けた。なお2010年と2011年のリーグ戦でストイコビッチがベンチ入り停止となった試合(合計2試合)では監督代行を務めている。