プロレスリング・エルドラド

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プロレスリングElDorado(プロレスリング・エルドラド)は、日本プロレス団体

概要

2006年2月23日Dragondoorを引き継ぐ形で設立された。組織を改組した理由については、当初はスポンサーであるlivedoorが引き起こしたlivedoorショックを嫌い、関係を斬ると噂されていた。プロレスリングElDoradoの設立記者会見ではこれを否定し、Dragondoor設立時の目標達成(石森太二近藤修司戦の実施、闘龍門2000プロジェクト復活興行の実施、闘龍門以降関わっていたウルティモ・ドラゴンからの卒業)により、新たな目標に向けて動き出す上での再出発であると説明し、引き続きlivedoorが関わり、団体のロゴマークのデザインもライブドアのデザイナーの石川秀一が担当した。団体のロゴマークは特定の色を持たず、その時々でカラーリングが変わることがあると説明している。

プレ旗揚げ戦「BREAK THE DOOR OPEN」は4月27日新宿FACEで行われた。7月16日後楽園ホール大会「CREATION OF ElDorado」が正式な旗揚げとなった。

5月17日石森太二が退団。

2007年1月24日リングソウル代表の藤永幸司が新宿FACEで記者会見を行い、プロレスプロダクション「ソウルコネクション」を発足させ、SCとして当団体の興行および所属選手のマネジメントを担当することを発表した。

旗揚げ後、最初の抗争となったのはヒールユニット同士の悪冠一色STONEDの抗争が団体の核となった。両チーム所属の菅原拓也を賭けた試合も行うが、つけあがった菅原本人が、両チームをひっかき回す存在となり、最終的にはKAGETORAを離脱させSTONEDへ加入する。

南京都高校レスリング部のYASSHI、JKO、火野の三角関係。対決共闘をくりかえしチーム編成としてYASSHIとJKOはそれぞれ辻本、沖本と本名になり、その語呂合わせで火野は日野本に改名する。卍丸と清水のシングルは対戦するたび卍丸が会場の備品、壁、カメラなどを破壊、約100万近い弁償を要求された。やがてTREASURE HUNTERSタッグトーナメントを開催し、優勝すれば弁償額分の賞金がでるため卍丸と清水はタッグを組み出場したが、東郷&近藤組が優勝する。

川畑代表の意向で軍団再編成、軍団無所属は退団を発表された。これに伴い悪冠一色の四人による軍団編成が開始され、試合をやるたびに入れ替えや保留などの展開を行われた。各リーダーによる4wayマッチにて、敗者となった近藤と辻本が再びシングルマッチ対戦。敗れた辻本に南京"Fuck'n"レスリング部に川畑代表から軍団解散が言い渡され、見納めマッチを最後に解散した。その後、川畑が本業の闘龍門JAPANに本腰を入れるためElDorado代表を退職(その後も協力)。

12月29日後楽園ホールのメインイベント終了後に不甲斐ない試合をするEldorado本隊選手に活を入れるべく、TARUが「頑張っているのは他団体の選手ばっかりやないか。2008年からは俺がこの団体をプロデュースしたる」と宣言、多留GMとして就任した。途中、マグニチュード岸和田が乱入し近藤を襲撃。近藤と試合を要求するも、近藤は断固拒否している。

菅原との結託や、タイトル戦に荒谷を起用するなど、大鷲に対して福田が不信感を抱く。谷嵜なおきが退団。KAGETORAが、飯伏幸太とのタッグでUWA世界タッグを奪取。ツトム・オースギとヘラクレスオオ千賀との結託など、HELL DEMONS以外、それぞれ軍団としての活動がなくなってしまう。

5月、新宿フェイスを舞台に月2回興行の「FACE Basta」を開催。入場料一律2000円というファンへの感謝を込めた大会となる。

8月、2周年記念大会のメイン終了後、近藤修司によって悪冠一色がエルドラドから撤退することを発表した。退団ではなく、前向きに団体の方向性を考え、自分たちは一時期退くという答えだった。

12月15日、「FINAL Basta(FACE Basta)」をもって活動休止となった。大鷲、菅原、オースギ、千賀は、後継として設立されたソウルコネクションの所属となる。

2009年11月、ソウルコネクション解散。

残った選手はプロレスリングSECRET BASE紅白プロレス合戦に分かれた。

タイトル

最終所属選手

スタッフ

リングアナウンサー

ゼネラルマネージャー

役員

代表取締役

途中退団した所属選手