T・W・ブッケマ

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T・W・ブッケマ(Tjarko Wiebenga Beukema、1838年6月18日 - 1925年6月25日[1])は、明治時代にお雇い外国人として来日したオランダ医師医学者である。

経歴・人物[編集]

1838年、フローニンゲン郊外の村落ニーゼイルオランダ語版で、裁判官の父Frederik Faber Beukemaと母Grietje Tjerks Wiebengaの間に生まれる[1]。1855年にユトレヒトの陸軍軍医学校に入学し、1859年に卒業して軍医となるも、翌年からフローニンゲン大学で研究を行い、1861年に「チフス患者の角膜障害」についての研究で学位を得る[1]

1871年(明治4年)日本陸軍省の招聘により来日し、軍医学校時代の教師であったアントニウス・ボードウィンの後任として軍医寮(当初大阪にあったが翌年東京に移転)で教頭兼医官として1880年(明治13年)まで診療と教育にあたった[1][2]。報酬月額は当初500円程度で、1876年(明治9年)以降は兼業を認める代わりに150円であった[3]。実際に1876年からは東京府病院においても、同様に診療と教育に携わっている[2]。1880年(明治13年)から1883年(明治16年)までは神奈川県に雇われて十全病院(現在の横浜市立大学附属病院)などで診療や指導を行い、ついで長崎県に雇われて長崎医学校(現在の長崎大学医学部)において教頭兼医員として診療と教育に携わった[1][2]。なおオランダの軍医の職は1873年(明治6年)に辞しており、1888年(明治21年)に帰国して後はハーグ市立病院に勤務したという[1]

ブッケマの関東滞在中、1877年、1879年、1882年にコレラの流行があり、避病院の運営や検疫の実施において活躍した[2]。またコレラ対策の一環として1879年(明治12年)7月に設置された中央衛生会の委員として、コレラ予防に関わる諸制度の策定や、日本薬局方の選定編纂に尽力した[1][2]。帰国に際しては、これらの功績に対して勲四等旭日小綬章が贈られた[2]

私生活では東京滞在中の1874年(明治7年)2月14日に、ボードウィンの姪の同僚であったイザベラ・C・ツワーテル(Isabella Charlotte Toewater, 1842-?)と結婚し、2子を儲けた[1]。夫人はクララ・ホイットニーらと親交があり華やかな社交生活を送っていた[1]。子供はともにテニス選手でFrits Beukema(1875-1930、本業は土木技師)とKarel Beukema(1878-1908、本業は外交官)、Fritsの子にイギリス特殊作戦執行部に参加したKarel Beukema toe Water (1909-1944)と反ナチ運動家のPitty Beukema toe Water (1911-1997)がいる。ブッケマは1925年ハーグにて87歳で没した[1]

なお、ブッケマはオランダ人での最後のお雇い外国人であった[4]

栄典[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j 石田純郎「ウトレヒト陸軍軍医学校の同窓生たち」『臨床科学』第21巻第8号、1985年、1089-1094頁、NDLJP:1787791/73 
  2. ^ a b c d e f 元中央衛生会委員長崎県雇和蘭国医師勲五等ドクトル、テー、ダブリユ、ブツケマン勲位進級ノ件 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  3. ^ 陸軍軍医団 編『陸軍衛生制度史』小寺昌、1913年、511頁。NDLJP:1088199/269 
  4. ^ "ブッケマ". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 講談社. (コトバンク. 2022年8月17日閲覧
  5. ^ 外国人叙勲録 明治十八年五月 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  6. ^ 『外国人叙勲録 明治25年1月1日現在』賞勲局、1892年、257頁。NDLJP:779173/135